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コメンテーター自身(石井恵理子氏)の親としての経験(201703S13)

みつめよう子どもの姿、考えよう子どもの現実


子どもを育てる、ことばを育てる ―子どもが自信を持って生きるための言語活動実践―


4回にわたってブログに掲載してきましたセミナー報告も、今回の第3部で最後になります。 コメンテータの石井先生はご自身が国際結婚で2児の母親でもあります。セミナーの最後に石井先生から親としての立場からお話しいただきます。石井先生の子どもさんは二人ともすでに成人していますが、先生はいったいどんな経験をしてこられたのでしょう。


家庭環境について

私の夫は韓国出身で、大人になってから日本に来たんですが、どうも日本語と相性が良かったみたいで、非常に日本語の能力は高いです。子どもは2人いて、上が女の子で、3つ違いで下が男の子です。私は家庭の中でそれなりにうまくやっていけば、そんなに苦労しないバイリンガルは可能かなというぐらいの気持ちでしたが、ある時、ハッと気が付いたら、夫が日本にいる間に、韓国語話者じゃない人に韓国語を話すことができなくなっていました。韓国へ帰国している間はずっと韓国語なんですが、日本の空港に着いた途端に、なぜか日本語にスイッチしてしまうんです。子どもたちに韓国語で話しかけているものと思っていたら、ほとんど全て日本語になっていて、そのたびごとに、「韓国語!」と私が言うと、韓国語になるんですが、あっという間に日本語に戻って…それをずっと繰り返していました。私もずっと働き続けていたので、子どもたちは保育園に入れましたが、保育園の中は丸々日本語で、子どもの韓国語自体は日本語と比べて、明らかに弱い状況でした。


韓国の親戚とのつながり

ただ、小さい時、お正月とか夏休みとか時間がちょっと取れる時は、1週間でも韓国へ行って、向こうの親族といろいろコミュニケーションをとったりするという経験をさせていました。運がいいことに、3つから5つ上の年齢に男の子2人と女の子2人のいとこがいたので、その子たちと本当に楽しく遊んでいました。親のことは見向きもしないで、そのいとこたちと遊ぶぐらいで、韓国語を覚えたかなと思って、一緒に遊んでいるのを見たら、その韓国のお兄ちゃんお姉ちゃんの方が、日本語で「貸ーしーて!」「ちょっと待って!」と言っていたんです。要するに、傍若無人な私の子どもたちにちゃんとわかるように言わないと、好きなようにされてしまうので、そのいとこきょうだいがさっさと日本語を覚えてしまったようです。ただ、やっぱりそういう仲のいい子と1週間丸々一緒にいたりすると、例えば、娘が、「いとこのお姉ちゃんがお母さんのケータイ、きれいな色だねって言ってたよ」と言ったことがありました。「あっ、そういうこともわかるんだ!」と思いました。息子も、いとこ2人のお兄ちゃんと本当に仲良しなんですが、気が付いたら、この子たちは言語活動をほとんどせずに、かくれんぼしたり…要するに、犬がじゃれ合っているような状態でコミュニケーションをずっとしていたので、息子の方はむしろ4歳ぐらいまでの方が、韓国の人に「何歳?」と聞かれて答えるなど、パッと聞いてパッと韓国語で答えられていました。

でも、息子はだんだん自分の日本語力が高くなってくると、同じように言えない言語は使わないという風に自分の中でなったようでした。私は残念な気持ちがとても強くて、いろいろ考えたんですが、私自身がそれを打開する能力がないと思いました。私の韓国語は、一人で出張に行った時にはなんとか乗り越えられる程度のもので、やっぱり、豊かに子どもたちに話しかけるというまでの力は全然ありませんでした。訳のわからない片言の韓国語でやることはナンセンスであることはわかっていましたので、その段階で、韓国語が自然に育つのはちょっと無理だとあきらめました。でも、その代わり、やっぱり、韓国にも自分たちをそのまま受け入れてくれる、親族、コミュニティがあるんだと、その気持ちはできるだけキープしようという意図で、向こうとの関係は保とうと努力していました。



息子と韓国語

一番韓国語力が低かったのが息子でした。ずっとこのまま韓国語ができないままいくのかなと思っていたら、高校に進学する段階で、やっぱり息子なりに、自分が一番韓国語ができないし、いとこたちとコミュニケーションがとれないとまずいと思ったのではないかと思いますが、突然、韓国語が勉強できる学校に行きたいと言い出しました。それで、韓国語のコースのある高校に入って、3年間読み書きもきちっと学んだら、私は追い越されました。私が一番悔しかったのは、発音が全然違うことです。私がいくら一生懸命発音しても、韓国の人に何のことかわからないって言われるのを、息子がふっと言った瞬間に「あー!」って返事が返ってくる時、とても悔しかったです。(笑い)


強制ではなく本人の意思

子どもが育っていくという時に、いろんな環境とか、親の力の問題もありますけれど、思うようにいくとは限りません。私自身、自然にバイリンガルになれる状況があれば、どんなにか良かっただろうとは思いますが、2つ以上の言語をバックグラウンドに持つ子たちが、みんなバイリンガルに育たなきゃいけないという風に思うだけで、たぶん、例えば、うちなんかの場合、すごく不幸なことになるかもしれません。よく考えると、私は何か不満があるかというと、家庭の中で毎日過ごしていると、とても楽しいし、この子たちは韓国に行くと、すごく幸せそうで、韓国に行くことがとても嬉しいって言っているので、これでまずはいいんじゃないかという風に思っていました。すると、息子が韓国語やるって言い出しました。言葉の力をつけていこうとする時に、どんなに周りが強制してもできなかったことでも、つながりというものの中で、自分がどういうコミュニケーションがしたいか、誰とつながりたいか、どういうレベルでつながりたいかを意識することで、「ああ、こういう風になるのかな」という風に思ったんですね。


娘と韓国語

上の娘の方は弟よりはずっと韓国語がわかりました。ただ、全然十分ではなくて、むしろ、弟が高校で頑張って追い抜かれ、かつ、読み書きは非常に不得手でした。彼女は実は声優という仕事を選んだんですが、それで、結構韓流のドラマとかの仕事も回ってくるんですね。一応、その元の韓国語の原稿と翻訳された実際に読む原稿があるんですが、やっぱり聞いていて、どうも日本語ちょっと不自然だと思ったものを、ちゃんと自信を持ってなんとかできるようにしたいと思い出したらしくて、1年ぐらい前に、韓国語のちょっとフォーマルな学習をするから、テキスト選ぶのを手伝ってくれないかと言われました。


忘れられない夏休み

私の例は全然、世の中に言う大成功のバイリンガルの家族の話ではありません。言葉というのがその人間にとってどういう意味があるかということを、親であっても、強制したり、決めたりすることはやっぱりできないんだなと思います。さっき言ったような、やりたいことしか絶対やらない息子がいたために、どんなに親がこうやろうと思っても、びくともしないという…子どもであってもそういう意思があるんだということを、親としては学んだわけですね。

これは別に韓国語だけじゃなくて、日本語を使っても、どういうことを日本語でやりたいと思っているかということにも影響があります。息子は作文もずっと書かなくて、文が書けないのかと心配していたら、4年か5年の時に児童会の書記を任されたら、その記録はちゃんと何ページにもわたって書いたと聞いて、「あ、文が書けないんじゃないんだ」とその時に初めて思ったんです。

でも、もうちょっとして、中学の夏休みに読書感想文の宿題が出て、息子が書いた文章のあまりの貧しさにがっかりしました。下手とかそういうのじゃなくて、とても短いし、何も伝わらない文でした。つまり、伝えたいことがなかったんですね。ですが、あまりにもがっかりしたので、私はその時、「中学生になってもこんなもんか。これ、こういうの読んだでしょ?このこと、どういうこと書いてあった?」とか言ったんです。息子は「そのことってどういう風に表現したらいいわけ?」と言いながら、多少、体裁が整った風に見えるものを書いたんですけれど、その出来上がりを読んだ時に、全然彼の気持ちとかけ離れた、こうあった方がいいよねという言葉の羅列の文章になっているっていうことをまざまざと見せられて、私は本当に心底反省をしました。これはほとんど暴力だなって、私自身、本当にあの時ほど自己嫌悪になったことはないんですが、無理やり、こういう言葉を自分から出しなさいということは、たぶん人間として一番やってはいけない暴力かなと思いました。つまり、思想信条とまで大きなことではないとしても、息子が感じたこと、息子が伝えたいことを無視して、こういう形で出すものでしょっていうものを書かせてしまって…母親として今までの子育てであのことは一生忘れないだろうなって思います。

やっぱり親が子どもにかかわっていく段階で、なんとなくいろんなことを学ぶ…子どもから学ばされるという経験をしました。

そんな風に好きなことしかやらなかった子も、去年の4月に一応、大学を終わりまして、運のいいことに、自分が行きたい、やりたいって思った仕事に今就けて、とっても楽しく毎日を過ごし、週末は海釣りに先輩に連れて行ってもらい、釣った魚は刺身と天ぷらにして…。そういうやりたいことがあればいいのかなと思います。


今、思うこと

最初、子どもが生まれた時に勝手に思ったこととは全然違うありさまですが、たぶん成功とか失敗とかというのは人間の尺度にははまらないと思います。その時その時に自分が今の状態をどう思うかはそれぞれですが、それはやっぱり、自分が一日一日生き続けていく中で、同じじゃなくて変わっていくのだと思います。自分のことを振り返る時に、自分の中で自分に向けて語りますよね。そういう時にどういう言葉で自分は自分のことをよく語れるか、あるいは、誰かとかかわりたい時に、この人とはどの言葉ならかかわれるか、ちゃんと伝わるかというようなことが、うまく練っていけたらいいのだと思います。世の中的な到達度も、どこかではもちろん力になるもので、無意味だとは思いませんが、そのことがその人のあり方を規定するものではないんじゃないかなという風に、最近、子どもたちを見ていて、自分自身が本当にその辺で納得したと言いましょうか、楽になったと言いましょうか、そのように感じています。


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