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複言語のこどもの土台は?「まざっていてもその人の言語。否定してはいけない。」「子どもの学校言語ができない親はどうやってサポートすればいいのだろう?」(201903セミナー15)

JMHERAT第15回セミナー
子どもを育てる、ことばを育てる

複数の言語・文化で育つ子どものリテラシーを考える


2019年3月17日(日)に終了した第15回セミナーの3回目の報告をします。今回は、午後の部の「事例報告」の発表概要、そして発表者・コメンテーターへの質疑応答とコメンテーターからのコメントを掲載します。

 

〈午後の部〉 

1.発表

「タイ語幼稚園に通う娘のことばの成長」藤井瑞葉(保護者)

「日本社会で生き抜くためのリテラシー育んだ青年の事例」松岡里奈(泰日工業大学)

2.質疑応答(発表者へ・コメンテーターへ)

3.コメンテーターより


 

1.発表


・事例報告1

「タイ語幼稚園に通う娘のことばの成長」 藤井瑞葉(保護者)

◆発表概要

夫の駐在のため生後7ヶ月でタイに来た娘は、4歳になり複数のことばに囲まれて育っています。日本人夫婦ですが、夫婦共に10年前後の海外経験があるので、タイでの子育ても何とかなると思っていました。しかし、駐在年数や次の赴任先がわからない状態で幼稚園を選ぶ段階になって「娘のことばをどうするか」という迷いが生まれました。「海外にいる間にいろいろな言語を」「読み書きは早いうちに」と考える親も多くいますが、私は悩んだ末、シュタイナー教育を取り入れている体験型のタイ語幼稚園を選びました。

 発表では、私が幼稚園を探すときに悩み考えたこと、入園からの1年半で起こった娘の変化、幼稚園で起こっていたこと、そして家で起こったことを紹介し、娘のことばの成長を支えていたものは何だったのか、幼児期に必要なことは何なのかについて検討しました。

 入園後1年半の娘の変化では、日本語もタイ語も、思っていた以上に広がり、それぞれのことばで「読み書き」への興味もでてきていました。また、言語世界に対する認識があり、言語間を行き来する力もつけ、ことばを自分の中に入れ、周りの人と触れ合い、関係性を築いていくことができるようになっていました。

 これら娘のことばの成長を支えていたものは、幼稚園で先生と娘の間に「愛着関係」が生まれていたこと、幼稚園が娘にとって安心できる場所であったこと、幼稚園での体験が主体的でやりとりがたくさんあったため、娘にとって親や周りの人と共有したい体験になっていたこと、そして、幼稚園と家庭を繋ぐものがあったため、親子で幼稚園での体験について対話する時間を多くとったことでした。つまり、幼児の子どもにとってことばの成長を支えるものは、「大切にされていると思える場所」で、どれほどの「ことばにして伝えたくなるほどの体験」をしているかどうか、そして、体験や気持ちの共有など「ことばにして伝えたくなる相手の存在と対話」ではないでしょうか。

 今回のセミナーのテーマである「リテラシー」を娘の事例と照らし合わせて考えると、就学前の幼児にとってリテラシーを伸ばすために必要なことは、この段階で文字が読めたり書けたりすることではなく、「はなしことば」の世界を充実させてあげることであり、それは、何語であれ「ことばにして伝えたくなるほどの体験」と「ことばにして伝えたくなる相手の存在と対話」があるかどうかだと思っています。


 

事例報告2

「日本社会で生き抜くためのリテラシー育んだ青年の事例」松岡里奈(泰日工業大学)

※発表者の都合により、残念ながら今回の発表はキャンセルとなりました。セミナー当日はこの青年のことを書いた論文、松岡里奈(2016)「日本にルーツを持つタイの若者の自己形成過程に関する一研究 : 他者との関係性が与える影響に注目して」http://hdl.handle.net/11094/59673 が紹介されました。是非お読みください。


 

2.午後の部 質疑応答(発表者へ・コメンテーターへ)


質問1:藤井さんの子どもさんは、保育園の先生や子ども達と接触する中で、日本語に対する変な感じというものはなかったでしょうか。私は夫がタイ人で、娘がタイのローカル保育園に通っています。日本人1人だけなので日本語を話しても誰も分からないという状況で、日本語を話すのが嫌にならないか心配です。

藤井:娘の場合は、日本語に対して嫌になるという感じはなかったです。しかし、我が家の場合は、住んでいる場所が英語環境だったので、そこでは孤立していました。英語が話せず1人で孤立している娘を見て、友達を作れるように英語を習わせたほうがよいのかと悩みました。しかし、タイ語幼稚園に通っている娘にもう1つことばを学ばすことは負担になると考え、英語を習うことはしませんでした。ただ、娘にとって住んでいる場所が「〇〇ができない辛い場」になるのではなく、「△△ができる場」になるよう働きかけをしました。例えば、娘が「ハロー」や「サンキュー」などを言ったら、その娘の頑張りをすかさず拾い大袈裟に褒めて、自信をつけてあげられるようしました。つまり、できないことに目を向けるのではなく、どのようなことでも「できた」ことに目を向け、褒めてあげることで自信がつき、それがことばを話すことにも繋がるのではないでしょうか。

質問2:駐在が何年になるか分からないということで、小学校選びにも悩まれるかもしれないですが、今の時点ではどの小学校を考えていますか。

藤井:まさしく今悩んでいます。今後、まだ何年になるか本当に分からなくて。小学校に関しては、今は日本語が土台になってきているので、日本人学校に通おうかと思っています。


子どもの「土台」ってなんだろう?

質問3:日本語の能力が土台になっているという話がありました。(しかし話を聞いていると)何語が土台というよりは、「これをやるときはこれ」みたいな印象があったんですが、土台ということが実感できるような状況なんでしょうか。

藤井:我が家は夫も日本人ですし、私も日本人ですし、家では日本語しか話さないような家庭環境です。タイ語の幼稚園に行っていてもそこには日本人の友だちもいっぱいいます。日本人の友だちとやりとりをしている中で、娘にとって一番話がしやすい言葉、また、自分の感情を伝えられる言葉は日本語だと思っています。もちろん、タイ語や英語も広がってきていますが、自分の思いを表現するような言葉にはまだなっていないかなというように感じているので、日本語を土台というように使わせていただきました。

複言語の子どもの土台は
〇〇語、〇〇語と切り離せず、統合的なもの

斎藤:多分、バイリンガルの子どもの捉え方を皆さんも考えられていると思うのですが、今日は朝からずっと複言語という言葉が使われています。気持ちをどの言語で表すのが得意かというのは子どもによって違うかもしれないですし、相手によって違うかもしれない。機能バイリンガルというバイリンガルの捉え方があります。その場合、例えば、家庭内でのおしゃべりは日本語。友だちと学校で理科の授業に参加する時にはタイ語。公園で近所の子どもたちと遊ぶ時には英語なんていうことが、もしかしたらあるかもしれません。タイの現地校に通わせているご家庭のお子さんでもあって、複言語という考え方であれば、それが統合した形で言語の力になっていると考えるのがいいと思います。何が土台になっているのかというところは、きっとさまざまな研究者によっても考え方の違いがあります。認知的な側面が大事だと主張する人は考えるための言語なのかと言うでしょうし、いやいや、もっと小さい子どもたちの教育に関心がある人は、さっき愛着という言葉が出てきましたが、親子の間で、あるいは兄弟や親しい人との間で愛着を感じられ、それを表現するときに使う言葉が土台なんだという主張もあると思います。何か1つの言語が土台だというような発想は今日の議論からすると少し危険かもしれません。ただ、何かしらの言語できちんと自分の気持ちを伝えられるということは、非常に大事だとは思います。

学校選択は今現在の状態からどうやって接続させていくかが重要

池上:藤井さんの発表と、今までの質疑を絡めて考えると、「小学校はどういうふうに?」と質問があったのは、多分、このあと勉強を積み上げていく年代に入った時に、どの言葉でそのようなことを選択するのかという質問だったと思います。特に、藤井さんの発表の中ではプレリテラシー(実際に文字を読んだり書いたりする前の段階で、文字を読んだり書いたりすることの良さや意味などを、文字を読んだり書いたりする活動のまねや遊びの中で体得していく段階)のところを日本語でしている。もちろん、その子にとってみれば、日本語で書いているかタイ語で書いているかというのは、お父さんは日本語人だからぐじゃぐじじゃって書いたお父さんへのお手紙は、「これなあに?」って聞いたら、「日本語で「おもちゃ買って」って書いてあるんだよ」みたいなもの。でも、相手がタイ語人だったら、タイ語でぐじゃぐじゃって。そういうことなんです。つまり、正書法にのっとっているか、文法と合っているかではなくて、その子にとっての書き言葉。「タイ人の〇〇ちゃんに書いたんだね。なんて書いてあるの?」って言うと、「お母さん、読めないの?これ、タイ語で△△って書いてあるんだよ」「そうなんだ」というやりとり。これはプレリテラシーの段階であって、日本語のひらがなが書ける・書けない、タイ語のタイ文字が書ける・書けないとかではない。こうやって書くことによって文字が表記できる。文字が表記できたことによって、ここにメッセージが残せる。その残したメッセージを人に渡すことによって、相手に意味が渡せる。そういうことを知っていて、使っているということなんです。そういう体験と知識があってこそ、正規の読み書きを習う段階、学校教育の文脈に入った時に、こういうことなんだなって内容にスッと入っていけるということがあろうかと思います。ですので、学校に入る前の段階で、そういったことを知ることや、そういったことで一緒に言葉遊びをすることが大事だと言われていることなんですね。藤井さんの発表の中のプレリテラシーの萌芽(ほうが)に関しては、おうちの中でそれがやられていて、萌芽が見えたということでした。今回は土台という言葉がから話が始まりましたけれども、藤井さんの子どもさんの場合、プレリテラシーを日本語という言語で今つけつつあるので、そこを接続させたいということで、小学校を選ぶというふうに見ていらっしゃるのだと思います。それが、そうしたら今できているタイ語を同じぐらい伸ばせるのか、今分かっている英語を同じぐらい伸ばしてトリリンガルになっていくのかという問題ではなく、今現在の状態からどうやって接続させていくかという形で選択されているんだなということです。

「ルー大柴語」のように混ざっていてもいいの?

質問4:私の場合、娘も夫もタイ語を話しているので、つい「早くアップナーム(タイ語:シャワーを浴びなさいの意)しなさい」みたいな「ルー大柴語」を話してしまっています。複数言語を混ぜて話していても大丈夫なのでしょう。

まざっていてもその人の言語。否定してはいけない。
意味あるやり取りの中で仕分けていける。

池上:そういう状況というのはありますし、ルー大柴さんが有名になっちゃったのでルー語といいますけど、それを、例えば、私は名前が摩希子なので、まきちゃん語って自分で言えば、それは自分の言葉をそう認識していることになります。ですから、そんなに危機感を持つ必要はないんじゃないかなと思います。ただ、やっぱりそうは申し上げても、このまま混ざったまま、ぐじゃぐじゃになったらどうしようというのはそれぞれ共通の心配事であるかと思います。やはりいつどこで誰と何を話すときにはこれというのを、段々自分で分けて捉えて出せるようになっていくんだということ。それには、どのようなやりとりを具体的にしていくかを考えてサポートできればいいんじゃないかなと思うんです。「混ぜちゃだめだよ」「そういう言葉を入れたら変だよ」というのは、実はその子にとってみれば否定されたことになって、その子の段階によっては「どこがなぜいけないのか分からない」ということにもなりかねませんむしろ今そういう状態なんだなという把握と、次には誰といつどこで何のときにどういうふうに仕分けていってあげようかなということを考えながら、今の発表につなげて考えていければ、意味のあるやり取りを作っていく段階で段々分かっていき、上手に分けていけるようになると思うんです。

混ざっていてもかまわない。
しかし、社会参画の形によって〇〇語ということが必要になる。

斎藤:内輪のコミュニケーションはルー大柴語でも何でも、相手ときちんとコミュニケーションができて意思の疎通ができて、何のために話しているかというのが伝わって、相手に求めている行動をしてもらえたら、それで大丈夫だと思うんです。ルー大柴語をしゃべる人がみんないたら、ルー大柴語がメインストリーム。それでいいかもしれない。けれども、例えば、将来的にある領域で研究をしていきたいと考えて、その研究をしていく上で研究の場所として日本を選んだとします。日本語で研究をするとなれば、やはり日本語で研究論文を読んだり研究したことを書いて表現するという力が求められます。なので、子どもたちが将来に向けて、どんな形で社会に出て行くのかということを、もし決める時期が来たり、あるいは決める上で、予備的に力を付けてあげたいなということが親御さんと子どもとの間でいい具合に同意ができているか。ある言語について、読み書きについて、一定程度の知識とスキルを高められるような教育を意図的にしていく必要があると思うんですね。そのときに、石野先生が話されたような活動を家庭でしろとは申し上げにくいんですけれども、あそこにたくさんヒントがあると思います。少しながら例として、私の恩師の息子さんはキノコが好きで、小学校に入る前からキノコ事典を見ていたそうです。おしゃべりは割とつたないけれど、キノコ事典に出てくるキノコの名前とキノコの系列などはいくらでも話せる。そこの興味からキノコの専門の言葉を知り、それを人に伝えるために「このキノコとこの菌は何とか科で共通しているんだよ」といった言葉を一緒に獲得していったりするということもあるんです。

なので、その辺りはそのあと自分が社会にどういう専門と言いますか、社会に参画する人間としてどうイメージするかというところと組み合わせながら、何か読んだり書いたりできる言語というのも1つはあったほうがいいかなと思っています。ただ、「これじゃないとだめよ」と言った途端に嫌になると思いますので、気をつけないといけないなと思います。

子どもの学校言語ができない親はどうやってサポートすればいいのだろう?

質問5:私は国際結婚をしていて、子どもはタイの現地校に通っています。父親として学校の用事や宿題にうまく対応できないことがあり、結構悩み事です。子どもの学校言語ができない親は、子どもの学校生活や学習をどうサポートしたらいいですか?

藤井:子どもが「タイ語で先生と話ができない。先生に言いたいことが全部言えなくて嫌だ」と言ったことがありました。私の分かる範囲で娘が先生に伝えようとしていたことを一緒になって考えて、機会があったらその先生に会ったときに一緒に話をしました。私もタイ語ができないので、あまりできなかったんですけど、一緒に娘に寄り添って問題を解決しようとしました

嶋田:宿題を持って帰ってきた場合、英語はまあまあ分かるんですが、タイ語は私もよく分かりません。でも、子どもは「こんなの書いたよ」ととても自慢げに見せるんですね。私はとりあえず「上手だね」「きれいだね」「いいね」「何って書いてあるの?」と。子どもは、それで満足しているようです。そういうのくらいしかできていないです。逆に言うと、嫁さんが、一応日本語はできますが、息子の宿題を見る時にサポートできないって言うんですけど、とりあえず声をかけてあげてと言っています。特に、内容をどうこうというよりも、来たものに対して自分の言葉でそのまま関わっているかなと思います。それがいいかどうかは分かりません。ただ、無視はしない、関わっているかなと思います。*嶋田さんも国際結婚のお父様で、3人の子育てをされています。

親が苦手な言語を学ぶ過程を共有し、解決の方法を見せる

斎藤:(学校と外国人の親の例としては)タイの国として、外国人のお子さんの教育についてどういう教育政策を持つのかということも、今後検討していってもらう動きは必要かなという点です。今どうなっているか存じ上げませんし、そのことについて話し出したら永遠に終わらなくなると思うので、まず、日本のお子さんに限らず、いろんな国から来ていらっしゃるお子さんの教育について、国としての政策をタイ政府にもう少し求めてみてもいいのかなというのが1つです。さっき移住というお話もありましたけど、さまざまな国からタイに来て住んで、タイの社会を形成していると思うので。それ以外では、お父さん自身がタイ語を学ぶ姿を子どもに見せるのはとても大事かもしれないです。学びなさいという意味ではないです。子どもがタイ語で苦労して勉強しているときに、分からない単語があったら一緒に辞書を引きます。日本語の意味が出てきたら、お父さんはその意味が分かります。そうしたら、日本語で子どもとコミュニケーションをしている中で、タイ語では説明できなくても日本語で説明して、一緒に問題を解いてみようかとか。全部しなくてもいいと思うんです。宿題できた100個のうちの2個でもいいと思うんです。そういうふうにして親御さんも努力しながら、僕がタイ語で分からないところを一生懸命手伝ってくれているという姿とかで、子どもたちが頑張ろうと思うのが1点だと思います。それから、辞書を引いたりとかの解決の仕方について、大人として一定程度のスキルがあると思うので、それを一緒にさせてあげれば、「なかなかお父さんからサポートをもらえないけれども、そうだ、お父さんはこうやってこの問題を解決していたから、私も変えてみよう」とか思うかもしれません。OECDの「自律的に」という言葉があったと思うんですが、ある程度自律的に学ぶためには、スキルやストラテジーという知識も必要です。全てをカバーできなくても、内容コンテンツじゃなくて、困った時にどう解決するかということを一緒に見せてあげるというのもいいのかなと思います国内の外国人の親御さんたちもみんなそれで苦労しています。例えば、国内の先生方で一生懸命努力している方は、算数の新しいかけ算の九九の勉強をしたときに、日本語の読み方のほかに、お父さんかお母さんに自分の国のことばでかけ算の読み方を書いてきてもらいなさいと声をかけたそうです。そうすると、親とのコミュニケーションができると同時に、お父さんお母さんも子どもの教育に関われる。それによって、全てが解決するわけじゃないんですが、親御さんも一緒に自分の学びの苦労を理解してサポートしてくれているという状況を、家庭内でうまく作り出せるような仕掛けを作っている人もいます。全部何もかもとはできないと思います。

深澤:あまり一人で全部抱え込まずに、自分の支援を受ける力もまた磨いていかれたらと思います。


 

3.コメンテーターから発表者へのコメント


ことばの成長を支えるために大切な3つの観点

池上:今の皆さんとのやり取りの中でいくつも大事な点がでてきていましたし、一緒に考えたいこともたくさん出されたかと思います。もし、何かコメントをするとしたら、親として思うこととして一番最後に3点


 ⑴「自分が大事にされている、大切にされていると思える場所」
 ⑵「タイ語であり、何語であれ、伝えたくなるほどの体験」
 ⑶「共有や振り返りなど、伝えたくなる相手の存在と対話」

と、大事なことを藤井さんが出してくださいました。これは多分、小さな子どもや日本語を勉強し始めた子どもに限らず、いろいろ悩んでいる最中の成長している途中の子どもたち、それから、もしかしたら大人にとっても、コミュニケーションをしようかなと思い、仕掛けていって、実際にコミュニケーションをするための大切なものではないかなと思って聞きました。それをどのように具体的に把握して、まわりが支えていくかは、やはりその子どもの発達段階や年齢、今置かれている状況、どういうライフを生きていこうとしているのか、どんな形で社会に参画していこうとするかによって、変わってくるんじゃないかなと思いました。


午後は保護者の発表でした。この発表から、複言語で育つ子どものことばの土台とはどのようなものなのか。混ざった言語使用をどう考えればいいか。複言語で育つ子ども現状を考える貴重なやりとりがおこなわれました。親と子の使用言語が一致しない場合の親のサポートはどのようにすれはいいのかという問題も切実なものです。モノリンガルで育った親や教師が、子どもの複言語状況を複言語能力観で捉え、その力を成長させるためには、このようなやり取りを繰り返しおこなうことが重要だと改めて感じました。

次回は、「リテラシー」を巡る全体質疑応答のまとめを掲載いたします。

タイにおける母語・継承語としての日本語教育研究会(JMHERAT)運営委員

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