JMHERAT第15回セミナー
子どもを育てる、ことばを育てる
複数の言語・文化で育つ子どものリテラシーを考える
2019年3月17日(日)に終了した第15回セミナーの最後の報告をします。今回は、セミナー全体のまとめを掲載します。
〈午後の部②〉
1.全体質疑応答
2.まとめ
「くらしの中でのリテラシーを育む」齋藤ひろみ(東京学芸大学)
「タイという環境の中でのリテラシーとは、育てるとは」池上摩希子(早稲田大学)
≪全体まとめ≫
「くらしの中でリテラシーを育む」
学びの連続性の維持
:移動前と移動後の子どもの学びをどうつなげるか
齋藤:子どもたちは移動するたびに言語、価値観、それから習慣と言われるような行動様式が違うところに移ります。日本で生まれた子がしばらくしてからタイに来て、タイで暮らしているうちに、タイのさまざまな価値観を自分の中に取り込むので、日本に帰ったとしても、そのまま日本人、日本の環境で育った子とは違う文化をきっと持つようになります。そうすると、言語の問題、それから、大きく文化の問題などでこれまで学んできたものをすぐさま生かして学習することが難しくなるということが現実としてあります。そうすると、残念ながら、移動するとゼロからスタートということが起きる危険性があります。そこで、私たち教育に関わる者、それから地域で支援をする者、そしてご家族としては、子どもたちの移動によって分断されてしまいがちな学びというものをつなぐということが大事になると思います。
移動が繰り返された場合も次の移動の時にこれまでの子どもたちの学びの経験をどういう選択をしたら生かせるのかという視点が大事だと思います。そのときに、もちろん親御さんとしてタイ語と日本語と英語のトリリンガルにという強い期待があることも分かりますが、それを実現する上でも、子どもたちが今までに学んだことを生かせる環境でトリリンガルを目指さなければ、きっとトリリンガルを目指したのはいいけれど、子どもたちがこれまで学んだことや経験を生かせなくて、苦しくて、学びについて前向きになれないとなれば、お母さん方が一生懸命準備した環境が全く機能しないということもあります。なので、これまで学んできたことを土台にしながら新しい学びをつないでいくためには、どういう選択がいいのかと考えていくことが大事だと思われます。
生まれた場所も違えば、それまでに受けた教育、保育の違いは、移動する先の教育、シ ステムも違えば価値観も違うかもしれません。そうすると、やはり1人で、例えば、近くで何が正しいかも、今正しいと思う最善を尽くしますが、本当にそれが正しいかどうかは、その後どうなるかなので、選んだからオッケーではなくて、選んだ先、起きる困難というのを予測しながら学びをうまくつないでいくにはどうするかということを常に考えたいと思います。それは場所を変わっていく移動で、時間軸で変わっていくので時間軸の移動の中での学びの連続性を考えたいと思います。一方で、実は、皆さんのご家庭のお子さま方は家と学校、あるいは社会の中で日々往き来をしながら、そこの間にある文化間の移動もされているはずです。その学校と家庭を結ばれることによって、子どもはきっとその学校と家庭を包含している社会との結びつきをどこかで見つけられるのではないかと思います。
社会参画する力について考える
:ミャンマーの子どものスピーチの例
スピーチをすることになった経緯
齋藤:1つ事例を紹介します。子どもが社会的、歴史的な背景を背負い、親の都合で日本に移動したミャンマーの難民の子どものスピーチです。ミャンマーの難民なのですが、今は民主化しているので、既に難民として日本にやってくる方はいなくなっているはずですが、3年ほど前まで日本がタイなどのキャンプで自主的に退避していた方々を公的に呼び寄せる第三国定住難民という仕組みを実施していました。そのときに日本にやってきた生徒さんのスピーチです。ミャンマーは非常に他民族で構成されている国で、彼自身はカレン族です。ミャンマーの中ではビルマ族が政治的にも経済的にも力を持っている民族です。一方で、カレン族というのはさまざまな民族間対立の中で、彼らだけが虐げられたとは言いにくいですが、ビルマ族に比べれば力が弱いという状況の中で難民でした。小学校高学年で日本に来て、スピーチをした時が中学校2年生でした。このようなスピーチでした。
「戦争の元は太平洋戦争だった。家の近くに英国軍の基地があり、日本軍が空爆してきた。僕たちカレン族は山に逃げ込んで難を逃れた。しかし、ビルマ民族はカレン族が何か企てていると誤解して攻撃してきた。カレン族はビルマ軍に対抗しようという人々と、逃げて生き抜きたいという人々に分かれた。僕の母はタイとの国境の辺りに逃げ、山で暮らしていた。そして、僕が生まれ、3歳になるまで戦争は続いた。」そこでずっとキャンプ生活をしていましたが、小学校高学年になる頃、「ようやく平和が戻った時、日本に来るチャンスがあった。母は外国に行って、子どもたちにもっと勉強させたいと日本に来る決意をした。」と言っていました。彼は日本の田舎に定住したんです。「僕は田舎に来たが、この考え方はとってもよいと思った。小学校に入ってから、みんなが声をかけてくれる。親切な人が多かった。日本語を早く覚えられた。」と言っていました。そして、カレン族の旗の意味は青と赤とがあるんですが、青は誠実であることと言って、「僕はこの旗の青い色のように誠実に生きたい」というのが締めくくりでした。このようなスピーチができたのは、実は、彼が中学校に入ってから毎日学校の先生との日記のやりとりをするんです。その中に、少しずつ自分の国のこととかを書き始めたそうです。それを見て、担任の先生が、きっと今こそこの子に自分の出自であるとか、親御さんの歴史的背景についてもう一度考え、それを回りの子どもたちに伝える機会になる、今だと判断したそうで、日本語指導を担当している先生が子どもと相談してこのスピーチの準備をして、国際理解集会という場でスピーチをしてもらったそうです。
親と子の価値観:親子の関係づくり
齋藤:このスピーチを作る時に、彼は実は親御さんが来る決意をした経緯であったり、親御さんが戦時中にどんな経験をしたかであったり、あるいは日本に来てからどんなふうに感じていたのかということについては知らなかったそうです。子どもの場合、自分が文化間移動をしていても、来る前のことについて忘れてしまうということはよくあることです。そんな中で、親御さんとやりとりして作ったこのスピーチの中で、母親の気持ちや母親の経験を知ったわけです。それを少し私なりに考えると、親も子どもも移動する中で、自分のライフコースというものを実現していくわけです。ところが、親が育ってきた歴史と子どもが育つ歴史、それから社会的な情勢も異なります。実は日本語は共通していたとしても、持っている価値観や持っている文化自体がもはや親と子の間で違っている可能性があります。親が子どもに自分と同じものを持っていることを期待するということが、時に子どもにとっては非常に大きなストレスになることがあります。なので、期待してはいけないという意味ではないです。しかし、子どもは移動する中で、また親とは違う文化を形成しているということを常に心に留めておきたいと思います。そうした中での親子の関係作りが必要だと思います。
自信に繋がった社会参加
齋藤:実はグローバル社会の中で日々世界の情勢や国際化という状況が変わる中で、今ここがあるというお話がありましたが、ミャンマーの例を取れば、ミャンマーの国内情勢も民主化をして変わっています。そして、日本国内でもミャンマーの難民の人を公的に受け入れるという制度があって、日本国内でもそのミャンマーの人であったり外国の人に対する認知の仕方や受け入れの制度が変わってきます。そうすると、今ここで何が大事かという判断の時に、自分と子どもとの関係に加えて、社会の動きというものも視野に入れながら、何を選択するのが大事かとか、何が最善なのかということなどを、先ほどの子どもたちの学びの連続性を維持するということに加えて、社会との関連の中で検討していくが必要だろうと思われます。今回、私としてぜひ伝えたいことは、このお子さんがミャンマーについて日本の子に語ることで日本の子どもたちがミャンマーについての理解、あるいは難民についての理解を深めた。それが彼にとってはカレン族である自分というもののアイデンティティを意識せざるをえない。何々人という1つの言葉でアイデンティティを囲ってはいけないというお話をしましたが、もちろん自分のアイデンティティの1つの要素として何々人というのは必ずあると思います。それについて回りの子どもから理解を受けた段階で、自分の民族的アイデンティティに対して非常に誇りと自信を持ったと思いますし、それが単なる自分のアイデンティティではなくて、彼らに社会を知るという機会を提供したという意味で、先ほどライフコースというのは社会的役割の連続なんだ、連鎖なんだというお話をしたと思いますが、この学校の国際理解教育という文脈の中で自分が役に立っているということを実感できたと思います。それは今日のテーマで言うところの、社会参加をしていくためのスピーチ、日本語の力だったんだというふうに考えられると思います。社会というのはもちろん学校の外の社会もありますが、学校自体がある意味社会の縮図であり、学校の中にクラスの社会があり、学年の社会があり、学校の社会がある。そこで何かしら貢献ができるという経験を重ねることが将来的には彼が本当に学校を卒業して社会に出るときの、高校を決めたり、自信になったりということになるだろうと思われますし、その経験を今回のスピーチで彼はできたのだろうと思います。では、これは学校の先生の実践なので、私たちのとはちょっと関係ないんじゃないの?と思われるかもしれませんが、実は、お母様方がなぜタイ語と日本語を両方話してほしいかということをどこかで語る機会をぜひ持ってほしいし、お父様方がなぜ僕はニューヨークで暮らしていたけれど、今回タイに行くことにしたのか、職業の選択で何を大事にしているかというようなことを、何らかの形で伝えるような機会があるということが、彼らが、言ってみれば2つの言語を勉強しなくてはいけなくて負担が大きくて大変なのはお父さんお母さんたちのせいだと、もしかしたら思いたいところを、父も母も社会と向き合いながら生きていて、それを僕も応援したいんだと思えるような、そのようなきっかけになるようなやり取りをぜひしていただきたいと思います。
リテラシーの育成の観点で3つの発表へのコメント
具体と抽象を行き来することの大切さ:石野さんの発表
齋藤:石野さんのお話を聞いた時に、常に具体と抽象を往き来できるような問いを投げかけているんですね。例えば、「協力したことがよかったです」と子どもが言った時に、「じゃあ、何をした時に協力できたと思ったんですか」でそこに具体が来るわけです。今度は抽象的なものを具体と結ぶ。一方で、具体をいっぱい羅列したら、「それによって何を学べたんですか」と、そういうふうにして具体と抽象の往き来をするということが、実は思考力を育てるときにとても大事です。どうしても家族間になると、私も母とそうなんですが、あまり語らない。「今日、どこに行くの?」「ん?大学」終わり。そこで自分を少し語ればよかったんだなって今日反省しているんですが、親子の関係でも、尋問のような問いはだめなんです。やっていることへの関心を示すような問いかけをスタートにして、具体と抽象をうまく往き来できるようなやり取りをされるといいのかなというのが1点です。
他者の支援とのアクセス:嶋田さんの発表
齋藤:嶋田先生が、よくできる親の場合についてどうですかという質問に対して、「分からないです」というお話がありましたが、よくできるかどうかはちょっと置いておいても、少なくとも子どもの学んでいることに関心を持って目を向けて一緒に歩もうとしているということはとっても大事だと思います。それが1点です。それと、自分にはそういう力や時間がないときに、周囲にあるリソースであるとか支援というものにアクセスして、そこで子どもが学べるような場を作るということをぜひ考えていただいたらどうかなと思います。それがお金があれば塾かもしれません。スイミングスクールかもしれません。お金がない場合、どうしたらいいだろうという時に、もし日本の学校であれば先生に相談して、保護者のボランティア活動を始めてもらったりということもあります。あるいは、学校の先生が親御さんに読み聞かせをその言語でしてもらう機会を作ろうといって、その親御さんたちの何人かいる違う言語の親御さんを呼んで、その方々の言語で読み聞かせをするような活動をする時に、そこにマイノリティの親御さんのコミュニティができて、それがお互いを助け合うきっかけになったりということもありました。なので、ぜひ自分でできなくても、それができる可能性があるところを外に求めるようなことをぜひなさるといいのかなというのを、先ほどのメッセージとして感じました。
子どもとともに頑張る:藤井さんの発表
藤井さんは実は、私が大学院で教えていた時にゼミ生として勉強し、低リテラシーの話とかを散々一緒にしていました。それが子育ての時にこんなに生かされるんだと思って、本当に親御さんの学んだことや経験したことを子どもと一緒にさらに深める。そして、新しい価値に心を開き目を開きチャレンジしていくんだという姿を改めて見て、きっと子どもはそれを見て、心強く思ってお子さんも頑張るんだろうなと思いました。子どもができるできないというのを要求するということと、自分が子どもと今から学ぶということをいつも並列で進んでいかれるといいのかなというのを改めて藤井さんを見ていて思いました。
タイという環境の中でのリテラシーとは、育てるとは
池上:1つには、例えば、漢字がいくつ書けるかとか、どのくらい文法的に正確な文が書けるかとか、どのくらい難しい長い文章が読み解けるかというような力も含んではい ますが、それだけではないということはお伝えしてきました。そういうスキルを組み込んだ、スキルをどうやって使っていけるかという力、そのスキルを使いながらどうやって社会とやり取りをし、自分がやりたいことをやっていけるようになるか、それができるかどうかというものをリテラシーだというふうに思います。私は、そう言っておきながら、でも、やはり読んだり書いたりする力は、大学などの上の学校に行くのに必要ですよねと言われて、それは全く否定するわけではないですが、そのベースになる力を育むということが大事で、それはこれまでのいろんないくつかのご発表にあったように、教え込むということではなかなか育たない。だから、リテラシーとは何か、育てるとはどういうことかというところがセットになって、今日のいくつかの発表の中にも表れてきているように思いました。
タイという環境をどう見るか
池上:私のタイトルに「タイという環境の中でも」と書いてありますが、この「タイという環境」というのをどう捉えるかですが、私自身が知っていることと全然知らないことがあって、リテラシーを育てるためにタイという環境をどう見るかということは、多分2種類あると思います。
1つは、タイでのリテラシーというと、何語のリテラシーなのか。1つは、やっぱりタイ語と、ここに集まっている私たちは大方日本語が使える者たちなので、日本語だと思います。タイ語という言語がどんな言語で、日本語という言語がどんな言語で、もう1つインターという学習環境があれば英語というのが入っていて、それぞれがどんな言語かということが大事な観点だと思います。ここでいうどんな言語かというのは、例えば、日本語で言うと、漢字とひらがなとカタカナを使って書かれている。タイ語はタイ文字で書かれていて、表音文字でという、そういうことも含まれます。大事なことです。読んだり書いたりできるようになるためには、それも大事。もう1つ大事なことは、それぞれの言語がどういう価値付けを持ってその社会の中にあるか。つまり、タイという社会の中ではタイ語が読み書きできるということがどのぐらい大事なのか。英語が読み書きできるということがどのぐらい大事なのか。さらに言うと、日本語が読み書きできるということはどのくらい大事なのか。もちろんこれは、その子、その家庭、それからどういうふうに社会に出て行くかによって、今のどのぐらいへの重さが変わってくるのですが、その観点は非常に大事だと思います。それは、実は、私のタイ語がどんな言葉で、日本語がどんな言葉で、英語がどんな言葉で、勉強するのにどのくらいの時間がかかったり、どうやったら勉強できて、漢字の覚え方はというのは、私は日本語教師なので知っていることに入りますが、それぞれの言語がタイという社会の中でどのくらいの重み付けを持って、タイの社会の中で生きていくためにどのくらいの価値付けをなされているのか、ということは私は知らないことです。でも、リテラシーについて考える時には、皆さんが考える時、それを考えていただかないと、どうやって育てるかというところになかなか具体がつながっていかないと思います。
もう1つは、何語であれ、タイという社会の中で、実は、リテラシーを持っているか持っていないのかはなかなか言えないですが、文字が読み書きできるということをどのくらい大事なことだと思うか。日本という社会は日本語が読み書きできるということが前提なんです。小学校1年生から入っていって、読み書きを習います。だから、読み書きができない大人はいるんですか。います。でも、読み書きができなかったらアクセスできないものが山のようにある。つまり、読み書きができることを前提に作られている社会と言っていいと思うんです。だから、日本に来ている外国の方が日本語の読み書きができないと、ものすごく苦労する。では、タイという社会、もしタイの中でと考えるのならば。それをアメリカにずらすことも、日本にずらすことも、別の国にずらすこともできますが、その社会の中で読んだり書いたりできるということが、どのくらい大事なのか、必要なのかということも時に考えなければいけない。実は、そんなに読み書きを要求されない言語もたくさんあるわけです。例えば、家庭内言語と民族の言語と学校の言語と国の公用語というのが4層に普通にあって、普通に大学に行こうと思えば英語でしか大学に行けない国。つまり、その国の言葉では高等教育がなされない国もある。そうすると、家庭内言語というのは文字がない言語もあるわけです。部族の言語にも文字がないけれども、もう1つ上の読み書きする言葉というと、それは英語になってくる。公用語も英語だったり別の言語だったりという国は普通にあるわけなので、そこから考えた時に、私たちの足元に目を移して、私たちが言葉を作って生きる社会、子どもたちが言葉を作って生きる社会もその読み書きするもの、言語というのはどのぐらいの価値付けをされているのか。すごく大切なのは、やっぱりできるようになってほしいが、1つ、2つ、3つを一気にできるだろうかというところも考えなければいけない。つまり、どういうプライオリティを置くかということにも発展してきます。
タイの中でリテラシーを育むとは?
OECDのPISA調査にみる移民の子どもたち
池上:タイという環境の中でリテラシーを育むとはどういうことなんだろうと考えることを前提に持ってくる。例えば、嶋田先生のご発表の中で、国際結婚家庭の子どもの学力や日本語力と外国籍の親が使用する言語に関係性があるのかという問いを立てて調査を進めていらしたんですが、ここはここで調べたこととこんなことがかんがえられるのではないかということが出て、それに対する私からのコメントをしました。実は、今日のリテラシーの語り始めの時に、OECDのPISA調査の話を齋藤先生のほうからしていただいたんですが、このPISA調査が移民の子どもと学力についても調べています。詳しくは、OECDのPISA調査と検索すると出てきます。そこからすごく大ざっぱに私が読んだものを申し上げると、移民の子どもと学力には3つ、つまり、移民の子どもであっても学力が高い子どもというのはいるわけです。OECDの調査です。3つ要因があって、1つは家庭での支援。2つ目に語学力。これは語学力です。1つの、つまりその現地語だけではなくて、その子が持っているいろんな言葉の力。母語であったり、家庭内語であったり、第二外国語であったり、そういう語学力。3つ目が教育体制。現地の教育システムが与えられる教育のサポート。この3つが影響して、その3つがそろえば、移民の子どもも2世とか3世の子どもたちも学力はきちっと保証されているというように読めます。家庭での支援環境というのは、今日いろいろなお話もできました。語学力というのも複言語という形でいろいろな、つまり1つの言葉だけではないよという話もできました。教育体制というのは、私はこれが知らないことであって、もしタイという文脈の中でリテラシーを語る場合には、タイではタイ語を第1言語としない子どもたちにどういう教育の支援があるのかなというのを実は知りたいところではあります。ただ、OECDの調査では教育体制として、移民の子どもたちの学力を保障するために重要なのは、1つは就学前の支援。もう1つは新しく学校に入ったすぐの時の初期指導にどんな保障ができるかということが、やはり後々の学校文脈の中で子どもたちが学力を付けていくために必要だというふうに言われています。そこを考えなければいけないということです。
ドイツの事例
池上:ドイツの補習校の子どもたちの調査にも加えさせてもらっていて、その調査をする時に、ドイツに住んでいるドイツ人のお父さんと日本人のお母さんの国際結婚の家庭の子どもの言葉がどうなっていくかということを見ているんですが、現地校に通っていて補習校、土曜日だけ日本語を勉強している子どもたちで、当然ドイツ語の力のほうが強くなって、日本語の力はなかなか大変なんですが、今申し上げた要因の中でいくと、やはり家庭での支援という努力がすごくなされていますし、語学力でいうとドイツ語に比べたら弱いんですが、日本語の力を伸ばすためにも非常に役に立っています。教育体制に関しては、ドイツは移民がたくさんいるので、少しはありますが、その子たちはむしろそのサポートを受けなくても済んでいるにはなります。その時にやはり大事なのは、幼稚園から小学校に上がる時、それから、小学校中学年に行く時、つまり、勉強内容が難しくなる時。ドイツはもっと言うと、教育支援システムとしてギムナジウムという、上級の学校に進学できるかどうかが小学校の4年生から5年生でテストを受けて決まるので、そのあたりの大変さ。ギムナジウムに入ったあとに、今度は大学に選別されるアビトゥーアという試験を受けるんですが、そこの辺りにやっぱりちょっとまた切れ目がある。だから、その辺りで子どもたちの言語の力がどうなっているかということを調べています。
リテラシーの育成の観点で3つの発表へのコメント
分断しない環境作り:プレリテラシーから小学校、高校、大学へ
池上:そういうことから考えると、石野さんの実践の中で小学校で書く力、それは伸ばすいろいろな工夫があったんですけれども、一番やはり大事だったのは今日もリテラシーの話の中にあった書き言葉による言語活動というのは結局認知的な力を伸ばすということが言われていて、それを目指しているかどうかということが大事なんじゃないか。それをやっていくことによって、子どもたちのリテラシーの力が保障されるかどうかというふうにいきます。その前を支えていたのが藤井さんのご発表で、学校に入る前に、プレリテラシーの段階で何をどのように育んでいったらいいかということがわかると思います。そういう時に接続が、そういうふうな形で石野さんの見ているお子さんと藤井さんのお子さんが具体的につながるわけではないんですが、学校に入る前、それから小学校の中学年から高学年にどんなふうに子どもの学びを、齋藤先生の言葉を借りれば、分断しない環境で、リテラシーというものを鑑みながら橋を作っていけるかということが非常に大事になっていくんじゃないかと思います。実は、そのあとに高校生、大学生ではどうだろうという松岡さんの話が続いていったと思うんですけれども、本当はそれは具体的なお話が、ご本人からはお話を聞けませんでしたが、それを全部リテラシーのほうにまた戻しますと、齋藤先生がキーコンピテンシーが3つ挙げられますよと言ったところにつながっていくように思います。そういう力をつけ、社会的な交流、それから人の力を借りるという意味での自立。自立というのは自分が何でもできるようになるわけではないわけです。自分のできることをちゃんと自覚して、人に助けてもらいながら自分ができることを伸ばすということができるような。そして、そこまでに身につけてきた道具的な言語の力をうまく総合して用いるということが大事。こういうことを読んだり書いたりする活動を積み上げていきながら、または読んだり書いたりする活動を続けていきながら力をつけていくということが大事です。これをまた、タイとの環境の中に戻した時に、こちらのお話をする時に、私が知っていることと知らないことというふうに話し始めましたが、そこを具体の1つのベースにして考えていっていただいて、それぞれの日常の中で実践として続けていただくことが大事だと思いました。今日伺った3つの報告もそれぞれの内容としてリテラシーをどう育むかということにつながっているように思いました。
5回にわたり、第15回セミナーの報告をしてきました。齋藤先生、池上先生、そして発表者の皆様ありがとうございました。リテラシ-とは何か、どう育てるのか。発表と先生お二人のコメントも全て掲載いたしました。このセミナーは保護者、教師、そして子どもも参加しています。この報告をお読みの方もそれぞれの立場で、気になるところからじっくり読んでいただけたら嬉しいです。
リテラシーとは、読めること書けることそれ自体ではなく、行動や活動に繋がる読む力書く力のことでした。その力で子どもは自分で社会との関係性を築いていけるのです。
「学びの連続性」「具体から抽象へ」キーワードがたくさんありました。
特に移動の中にある私たちの子どもたちには、学びの連続性を意識しなければなりません。幼児期から学齢期、そして青年期へという時間軸の上の連続性。そして、学校や国境など、言語環境が変化しても子どものそれまでの学びが分断されず連続されること。それを意識して家や学校の環境をつくることが大人の仕事になるでしょう。そして何より私たち大人が子どもを見つめ、何が必要なのか考え、子どもにとって意味のある存在であること。私たちが子どもにとって関わりたい社会であること。そこを目指し、研究会も活動を続けていきたいと思います。
タイにおける母語・継承語としての日本語教育研究会(JMHERAT)
運営委員