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1.名前を変えたかった私(201309勉強会05)

複言語・複文化を生きる親と子の思い

−経験を語る、経験を聞く−


タイで育ち、大学で日本語を専攻した

雅子さん(仮名)の思い(母日本・父タイ)


母になって語る子としての思い 第1回報告

 雅子さんは現在44歳。タイ人の父、日本人の母のもとタイで生まれタイで育ちました。両親は父が日本留学中に出会い結婚、家族は兄と妹の5人家族です。家では、夫婦の間の会話は日本語、親子・兄妹の間はタイ語でしたが、雅子さんは母親とは日本語で話していました。幼稚園からタイの学校で学び、タイの国立大学の日本語学科を卒業、日本とアメリカに留学、タイの大手日本企業に勤めました。現在は結婚して二児の母です。  タイと日本という二つの国とどう向き合って成長してきたのか。そして自分も母になった現在、何を思うのか。名前、言語、アイデンティティの面から語って頂きました。雅子さんの話を3回に分けて報告します。また雅子さんのお話のあと、お母さんにもお話を伺いました。


※ダブルとハーフ 国際結婚児は一般に「ハーフ」と呼ばれていますが、「半分」という意味の呼び方は差別的であるため、最近は「ダブル」と呼ぶ人も増えてきました。当研究会でも「ダブル」と呼びますが、当事者の語りの中の「ハーフ」はそのまま直さず使用します。

 

名前を変えたかった私

 タイで生まれ、タイの環境に囲まれて育った雅子さんにとって、日本とのつながりを最も端的に示すものは、誰が見ても「日本人」とわかる名前でした。ダブルの人の場合、タイ語と日本語、両方の名前を持っていることもありますが、雅子さんにはタイ語名がありませんでした。そのため、“雅子”が自身を表す唯一の名前でした。1回目の報告は、雅子さんの名前とアイデンティティを巡る話です。


■外から枠づけられる“○○人の私”

 雅子さんは幼い頃から、タイ人として母に厳しく育てられた。しかし周囲からは、日本とのダブルであることは“日本人と同じ”であると見られていた。

うちの母は、「あんたはタイ人だよ」ってずっと言ってたんですね。必ず、母の友達と会うと言うんですね。タイ人だから、ちゃんとワイ(注)しなさい、お辞儀じゃなくてって。ずっと余計に強調してましたね。うちの母は。でもそうじゃないです。母がタイ人って言ってても、周りの人は日本人だと思ってました。名前も雅子だし。 (自身は自分を“何人”と思っていた?) 小さいときはわからなかったですね。母はあんたタイ人タイ人って、周りの人はあんた日本人って。先生もあんたは日本人って。わからなかったですね。結局。 例えば母の友達に私がワイしないと、母はそれが失礼だと思っていると思います。 (それはタイ人に対して?) いえ、日本人です。うちの母と同じ国際結婚の人ですね。たぶん、言う人がいるんじゃないですか。タイ人なのになんでワイしないの。母はずっと、「タイ人だからワイしなさい」。だから癖があります。日本人と会ってもワイします。 (お父さんはタイ人らしくしろと言ったことは?) 父はないです。本当に父は、私はタイ人だタイ人だと言ったことはないです。母だけですね。 (注)ワイ:日本のお辞儀に相当するタイの挨拶 母にどうして日本人学校に行かさなかったのと聞いたが、「あんたタイ人だから」と言われましたね。国籍も母が勝手に20歳の時に決めました。母が「タイにずっと住むんだから日本の国籍は必要ない」と言っていました。

雅子さんは母親のこうした態度を、一方的な枠づけだと感じていた。 お母さんがこのように雅子さんを教育したのは時代背景にも理由があるかもしれない。雅子さんが育った1970〜80年代、国際結婚家庭もタイに住む日本人も今ほど多くはなく、子どもをダブルで育てるという意識は薄かったようだ。お母さんの話では「親戚は全員タイ人ですから娘は当然タイ人」と、特に迷った形跡はない。お母さんは、タイ人だからタイの礼儀をきちんとしつけると考えていただけである。雅子さんにとって押し付けになるとは考えてもいなかったと思われる。しかし、お母さんの思いとはうらはらに、雅子さんは学校の友人や周囲の人からは“日本人”と見られており、雅子さんの自分意識は混乱してしまう。

■周囲は“日本”・“日本の生活”に興味津々
(幼稚園は) タイの有名な人の家族の幼稚園だったんですね、貴族の。 小学校もカトリックの学校で、(普通の学校よりも) ハーフの人多かったんですね。(授業は)タイ語ですけれども、英語の先生がシスター、タイ語を話せない人、タイ人じゃないですね。その学校では(ダブルであることで) 目立つとは気づいてないですね。 中学に入ってから問題ですね。国立の学校でいろんな人がいて目立ちましたね。先生からも学生からも聞かれるんです。「どうして、雅子〜、あの〜」いろいろ聞かれるんです。 答えるのがめんどくさいなあ。ほっといてという感じでした。そこで、名前も呼ばれたくない。人に自分のことを知られたくないと思っていました。

中学校は周囲がタイ人ばかりの環境だった。雅子さんのようなダブルの子どもはとんどおらず、興味の対象になってしまった。雅子さんはそうなってしまう原因は誰にでもすぐに日本名とわかる名前にあると考えた。


■「日本人」と思われてしまう名前
(雅子という名前は)たぶん父がつけた。 タイではね、日本名っていうと雅子はみんなわかるんですね。ごく普通な名…タイだとソムチャイみたいな。 もう小さい頃から。名前が雅子だからみんな、興味持つじゃないですか。当時、情報、インターネットもなかったし、日本に関する情報が少なかったですね。ハーフの人も少なかったし、日本人自体が少なかった。それでみんな興味を持つんですね。日本は優れてる国だから、みんな興味を持つんです。家では何をしてる?何を食べてる、とかね。もう、すごく興味を持つんです。 いちいち答えるのが面倒で。だから初対面の人と、会うのがちょっと嫌だったですね。色々聞かれるのが。日本に関すること。…シャンプーは何を使ってる、みたいな。

質問の内容は、日本の食べもの、父と母の出会い、祖母の出身地など些細なことにまで及んだ。“日本人の生活”について質問されることは、ダブルではあっても日本の生活経験がない雅子さんにとって大きな負担だったと思われる。興味を持たれること、質問攻めされることが面倒だった、という語りは繰り返し登場する。それだけ記憶に焼きついているということだろう。


病院行く時も雅子って呼ばれるんです。そうするとみんな振り向くんですね、珍しいから。

■名前を変えようと思った

名前のために注目されるのなら名前を変えたい。それが極まった中学時代、真剣に名前を変えたいと考えた。

ある時、母に言ったんですね。雅子っていう名前、やだから変えたいって言ったの。で母に、本当にやだったら変えてもいいよって言われて。でもその時、なんて言うんですか、嫌だけども、変えるのも怖いですね。捨てる、自分の名前を捨てるのも。

タイの習慣では、運勢を良くするためといった理由で名前を変えることは特別珍しくないが、雅子さんの場合はそういった感覚ではない。


日本の名前が嫌で、それだけです。別に運勢どころじゃないです。 タイの名前も、見つけたんですね。見つけたけど、結局、変えるのはやめたって決めちゃったんですね。 (なぜ?) 自分の今までの過去を捨てるみたいな気持ちで、、、。

「名前を捨てることは、自分の過去を捨てるような気がした」という言葉の意味は重い。雅子さんにとって名前は、それによって加えられるストレスと戦いながら自己形成してきた自分自身を象徴するものであったのだ。複言語複文化で育つ子どもにとって、名前や容貌は外から枠づけられる大きな要因となることがある。雅子さんの場合もそうだった。しかし、中学生の雅子さんは名前を変えない決心をした。

 

名前によって周囲からは日本人と枠づけられ、お母さんからはタイ人と枠づけられた雅子さん。枠づける側に強い意識はありません。だからこそ、その枠づけは消えることなく続きます。この二重の枠づけの中で自分は何人か「わかんなかった」と語る雅子さんは、枠づけから逃れることより「自分」を捨てないことを選んだのです。そこには、名前によるストレスを生きてきたことも「自分」なのだという、強い自己認識の芽生えを感じます。その自己認識は○○人、という枠づけで語れない「私」意識です。




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