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2.努力しお身に付けた日本語201309勉匷䌚05

耇蚀語・耇文化を生きる芪ず子の思い

−経隓を語る、経隓を聞く−


タむで育ち、倧孊で日本語を専攻した

雅子さん(仮名)の思い母日本・父タむ


母になっお語る子ずしおの思い 第2回報告

第1回報告では【名前を倉えたかった私】ず題し、雅子さんの名前ずアむデンティティを巡る゚ピ゜ヌドを報告したした。第2回では少し方向性を倉え、雅子さんがどのように日本語に觊れ、孊び、䜿いながら生きおきたのかを報告したす。

 
努力しお身に付けた日本語

■母から抌し付けられた日本語

 第1回報告での゚ピ゜ヌドでは、雅子さんの母芪が雅子さんを「タむ人」ずしお育おおきたこずがわかる。しかし䞀方で、母芪は雅子さんに自分ずは必ず日本語で話させた。孊校も家庭も基本的にはタむ語環境だった雅子さんにずっお、日本語は母芪ず話すずきに䜿甚する蚀葉だったが、その思い出は決しお幞犏なものばかりではなかった。


最初は母からのプレッシャヌ
母ず話す時は日本語、父ずはタむ語です。母ず父は、日本語でコミュニケヌションしたす。でも小さい頃は、蚘憶のあるのは、母は日本語で話しかけたすね。私はわかる蚀葉は日本語で答えたすけど、わからない蚀葉はタむ語で答えたした。で、い぀のたにか母が日本語で答えなさい、日本語で答えなさいっおプレッシャヌをかけるんですね。それで、日本語を話すようになった芚えがありたす。

母芪は雅子さんに、習慣や瀌儀䜜法はタむ颚にし぀ける䞀方で幌い頃から日本語も教えおいた。タむ人らしくするこずず日本語を話せるこずは、雅子さんにずっお母からの二重のプレッシャヌずなっおいた。


雅子さんにずっお日本語のリ゜ヌスは母芪ずの䌚話が䞭心で、少し絵本を読む皋床だったずいうが、雅子さんが日本語に觊れお育っおきたこずを瀺す、興味深い話がある。

面癜いのは、音、䟋えば動物の鳎き声は日本語で聞こえたすね。䟋えば犬はワンワンっお聞こえたす。タむ語は犬はホンホンっお鳎くんです。ホンホンっお聞こえないです。カ゚ルもゲロゲロず聞こえるんですね。サむレンもピヌポヌピヌポヌず聞こえるんです。タむ語はりォヌりォヌりォヌです。そう聞こえないです。

しかしお母さんによる日本語教育は、お母さんがずっず日本語で話しかけ、雅子さんはそれに日本語で答えるこずをひたすら芁求されるずいうもので、日本語でどう答えればいいかを具䜓的に教えられるこずはあたりなかったずいう。母芪以倖に日本語で話す盞手もほずんどおらず、語圙や衚珟は母芪の話す蚀葉から孊ぶしかなかった。限られた日本語では蚀いたいこずを十分に衚珟できず、日本語で話すこずは雅子さんにずっおストレスになっおいった。


蚀いたいこずが衚珟できない日本語
ストレスですね。母ずしゃべっお小さい頃っお䌚話するのは、単語も文法も限られおいるじゃないですか。ご飯食べた䜕食べたお腹すいたずかそういう簡単な䌚話しかわからないじゃないですか。でもだんだん倧きくなるず、話が倧きくなるじゃないですか。それがわからないんです。 たぶん小孊校頃だず思いたす。自分の日本語が止たっおる、子どもの蚀葉しかわからないずいうのに気付いたんです。

幎霢が䞊がるに぀れお耇雑になる内容を日本語で衚珟するこずに限界が生じた。その困難を乗り越えるために雅子さんがずった察策は、できるだけ母芪ず話すのを避けるこずだった。


母ずは簡単なこずしか話さない
母ずしゃべるのを避けたり、難しいこず話すのを避けたり、自分のできるこずしか話さない。だから、今でも母ずしゃべる時はあたり難しいこず、ややこしいこずは話したくないです。話せるけども、なんか性栌になっちゃいたしたね。 (お父さんずは) お母さんよりは。お父さんずは同じタむ語じゃないですか。日本語ですずこっちも日本語なので十分話せない、どうやっお説明すればいいかがわからない。難しい事に関しおは。

難しい話を避けおきたこずが母芪ずの関係にも圱響したのか、倧孊の日本語孊科で孊び、日本語で蚀いたいこずを蚀えるようになった埌も、母芪ずはそれほど深い話はしないずいう。


■努力を重ねお身に぀けた日本語

䞭孊・高校時代になるず家庭教垫を぀けたり、語孊孊校にも通ったりした。母芪に蚀われたから勉匷しおいたが、呚囲からも日本語を期埅されるので、もっずうたくなりたいずいう気持ちもあった。タむの囜立倧孊の日本語孊科に入孊、日本語を専攻した。


なぜ日本語孊科にタむで日本ブヌムがおきた時代
日本語が、その時代はすごく普及ずいうか。その時に日本語を勉匷したい、あず留孊したいっおいうのがありたしたね。やっぱり、日本進んでるじゃないですか。教育に関しお、あず囜も。むメヌゞもタむ人にずっおすごく理想的な留孊する堎所ですね。圓時たぶん、留孊するならアメリカか日本。

雅子さんが倧孊で日本語を専攻したのは1980幎代の埌半。日本のバブルず重なり、タむに日本語ブヌムが起きた頃である。


倧孊時代―日本語挬けの毎日
私の日本語がうたくなったのは、倧孊に入っおからですね。 今たでず違っお䌞びたした。倧孊では、単語も増えたし、䞀日䞭日本語だったです。それたでは、ひらがな、カタカナが曞けた皋床でした。

日本留孊―ドラマで日本語を孊ぶ

 倧孊卒業埌、雅子さんは日本の倧孊院に2幎半留孊した。しかし圓時はただ倧孊院に進孊する日本人孊生が少なく、環境は日本語に囲たれおいおも日本人の友人は少なかった。

倧孊院の時、ドラマ芋るのが奜きだったんですね。ドラマから日本語を芚えたんですね。日本で留孊しおた頃はみんな呚り留孊生。日本人の友達䞀人か二人しかいなかったですね。䞀人日本人の友達がいお、たぁそこでうたくなっお。でもその友達のせいでうたくなった蚳じゃないですね。テレビ芋たり、色々ね。

アメリカ留孊―友人はみんな日本人

日本留孊埌にさらに1幎間アメリカに留孊した。そこでは友人のほずんどが日本人留孊生で、その時が自分の日本語力が最も高かった時だず雅子さんは語る。

アメリカで呚りが党郚日本人です。友達が。そこで、もうすごく頂点たで。日本語が頂点たで。

日本語に囲たれた環境にいた日本時代よりも、日本人の友人がいたアメリカ時代の方が日本語力が高かったずいう語りからは、意味のある関係性の䞭で䜿甚するこずで蚀語力が䌞びるこずがわかる。タむに垰囜埌、倧手日本䌁業に就職したが、䌚瀟では曞類も䌚話も基本的に英語だった。日本語を䜿う機䌚は逆に枛り、だんだん日本語を話す力も萜ちた、ず雅子さんは蚀う。


■ダブルだから日本語が話せるわけじゃない

雅子さんは子どもの頃から、ダブルだから日本語が話せお圓然、ずいう芋方をされるこずが倚かった。

(ダブルだから)日本語が話せるのが圓然っおいうのは、違いたすね。今でも、努力したから話せる。努力は䞡方ね。芪も、子どもも。圓然できるわけじゃない。

芪が日本人でも、努力しなければこずばは身に぀かない。雅子さんは決しお「圓然ではない」のだず匷調する。努力したからこそ身に぀いたものなのだ。だが呚囲にはその努力の事実は分かっおもらえない。

 

芪が日本人ならば日本語はできお圓然、ずいう思い蟌みはただただ根匷くあるのではないでしょうか。こずばだけでなく、日本の文化・習慣も知っおいお「圓然」ずいう呚囲の思い蟌みはダブルの子どもたちにずっお倧きな負担になりたす。過重な期埅ず自分の努力を正圓に評䟡されない珟実。そのような状況を子どもたちはどう生きればいいのでしょうか。第3回報告は「ダブルを生きる私」ず題しお、雅子さんが自分の珟実ずどう向き合い生きおきたかを報告したす。



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