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3.ダブルを生きる私(201309勉強会05)

複言語・複文化を生きる親と子の思い

−経験を語る、経験を聞く−


タイで育ち、大学で日本語を専攻した

雅子さん(仮名)の思い(母日本・父タイ)


母になって語る子としての思い 第3回報告

第2回報告では【努力したから日本語が話せる】と題し、雅子さんがどのように努力を重ねて日本語を習得していったのかを報告しました。第3回は、雅子さんがタイと日本という、二つの背景とどのように向き合い、受け止めていったのかを報告します。

 
ダブルを生きる私

■ダブルなら日本のことを知っていて当然?

雅子さんは子ども時代から、“ダブルだから日本について当然知っている”という期待を周囲からされてきた。


重い期待
ハーフってことで、みんなから期待されるじゃないですか。日本人のハーフっていうと。日本人はどう思うかわかりませんけど、タイ人にとって、日本人のハーフっていうと日本人と変わらないです。だからまず日本語が話せるのは当然。あと日本の習慣がわかるのも当然。あと情報とかも。だから必ず、聞かれますね日本のことを。でも私日本人じゃない ハーフだよって。タイ人と一緒じゃないですか。ハーフって言っても、国籍もタイですし、ずっとタイに住んでるから、まったくタイ人だと思ってるんですね、自分は。でも周りの人はそう思ってないです。日本のことになると「あ、雅子」とかね。日本の情報知りたくなると「雅子に聞いて」とかね。

こうしたことは大人になった今でもあり、日本人の考え方感じ方、習慣、今の日本に関する情報などあらゆることを聞かれる。その多くは日本に住んでいない雅子さんには答えることが難しい質問だが、雅子さんはわからなくてもそれを言うことができないという。


「わからない」と言えない
例えば、誰かが旅行に行く時、電話かかってくるんです。どこどこに行くけど情報が知りたい。私も何年も日本に行っていない。わからないんです。でもそれでも言えないですね。わからないって。みんなから期待されているじゃないですか。わかるって。で、わからないっていうとなんか親切じゃないみたいな。みんなが当然わかっていると思っているから、わからないっていうと「ええ、教えたくないのー!」って。そういう風に見られたくないから。だから一生懸命、ネットで調べるんです(笑)わからないことはあるから。

他にも、友人が日本でレストランを始める際に、ウエィトレスの服の色について日本ならどうかと聞かれたこともあるという。雅子さんにはわからないことだが、お母さんに電話したり、インターネットで調べて答える。期待に応えないといけない、わからないで済まないと雅子さんは思ってしまう。


タイのことは「知らない」と言えるのに…

逆に、日本の友人にタイの観光地を案内し、歴史などについて聞かれることもある。その際は、知らなければ「知らない」と言うことができる。 日本人の友人にタイのことを聞かれた時の話である。


わからないってその子には平気で言えるんです。その子にタイ人なのになんでわからないの、勉強しなさいって言われてもなんとも思わないんです。ガイドさんに近づいて聞きなさいって気楽に言えるんですね。 (友達じゃない日本人に同じように言われたら?)(友達じゃなくても)恥ずかしくない。けどタイ人に日本のことを聞かれて答えられないと、あーいけないと。

どうして日本のことだと知らないと言えないのだろう。実は雅子さんのように、自分の背景のうち生活経験のない方の国について聞かれて「知らない」と言うことができない、という感じ方は複数の文化的背景をもつ人にしばしば見られる。 タイのことなら知っていることは他にもいろいろあるから、知らないことがあっても平気だが、日本のことは知らなくて当然なのに、知らないということができない。それは周囲の「当然知っているはず」という思い込みを、実はそうあるべきだと自分に重ねてしまうからではないのか。知っているべきなのに自分は知らない。自信がないことばかりだと自信がないことを表明することは難しい。周囲のきめつけが、自分への決めつけになってしまう。だからこそ決めつけが重いのだ。この重さから雅子さんはダブルであることをなかなか肯定的に捉えられなかった。


■ダブルであることの意味‐1

雅子さんがダブルであることを前向きにとらえはじめたのは、アメリカ留学がきっかけだった。


初めて生まれた肯定感
アメリカに留学した時にホストファミリーがいたんですね。その時にホストファミリーの人からハーフでいることは良いことだと褒められたんですね。2つの習慣の間にいるというのは非常に良いこと、貴重なことって言われた時にあ〜そうだな〜って。その時はもう大人だったんで、26歳の時。そこであ〜そうだな〜って思いました。

ダブルは、会社ではアドバンテージ

タイに戻り大手日本企業に勤務するようになってから、ダブルであること、バイリンガルであることが自分の利点と感じるようになった。


会社に入ってからハーフである事が本当に得、っていうか自分にとってアドバンテージだったんです。子どもの頃ってそういうのはないじゃないですか、純粋なまんまで。得なこととか、損したこととかね、傷つけられたら損、でも得した事とか考えた事ない。 特別扱いされますね、日本人からもタイ人からも。タイ人は私のことをタイ側とは思ってないんですね。タイ人からは同じタイ人ではなくてちょっと上、で日本人からは普通のタイ人よりもちょっと上で見られる。

子ども時代、特別扱いは自分の異質性を強調されるできごとでしかなかっただろう。そのたびにアイデンティティは揺れる。しかし、大人になりこの特別扱いを有利と位置付けることができた。このように社会人になってからはダブルであることがプラスになる場面も増え、自分からも積極的にダブルだからこそでできる自分の役割を見つけた。


自分の役割は橋

社内の使用言語は基本的に英語で、雅子さんの業務に通訳が含まれてはいなかったが、問題が起きた時に日本人の社員は雅子さんに日本語‐タイ語の通訳を頼んできた。

何かシリアスな話になると必ず私を通しますね。日本語で、私がタイ語でタイ人に伝えてってそういう風にずっとやってました。遠慮がちじゃないですか日本人って。シリアスな話になると自分から相手に言いたくない。だから私を通して。私は橋のようなものです、その二人の間を。社会人になってからは(ダブルであることが嫌だと)思わないです。私だったらこの二人を妥協させてあげられる、というのはありました。タイ人の気持ちもわかるし、日本人の気持ちもなんとなくわかるし、私がこの二人を上手く仲良くさせられる、そういう風に思ってました。最初は嫌だったけれども、だんだん仕方なく。両方の気持ちがわかるのは、自分にとっては大きいと思いますね。間に入ると、シリアスなのがソフトになりますね。二人がバババ−ッて言うよりも。なんか日本人といると、私も日本側にも属しているし、タイ側にも属してるから。どっちかじゃないんですよね。だからこの二人をうまくさせてあげたいっていう気持ちはあります。

自分が双方をつなぐ「橋」になること。それが雅子さんが見つけた役割だ。このような役割の発見は先に報告したマリさんにもあり、複言語・複文化の子どもが自分の能力と自分の役割を感じる貴重な体験である。


■ダブルであることの意味‐2

どちらでもあるからこその役割をみいだした雅子さんだが、タイと日本のどちらも100%でない、という中途半端な気持ちは依然としてある。


どちらも100%でない私
自分はほんとに中途半端な所にいる。今でも思うんです。日本の習慣もわからないし。日本人の考え方は、タイ人よりはわかるけれども100%理解できない。私のタイ語も変ですね、タイ人から聞くと。だから自分はなんだろうねって。真ん中にいて、ハーフであることはほんとにいいことかどうか、よく考えるんですね。タイ語も100%のタイ語はしゃべれない。ことばの並べ方がちょっとタイ人と違う。しゃべり方のスピードも遅い。あと、ことわざも普通のタイ人と同じようにわからない。日本語も、ずっとタイの学校に行ってたのでうまく話せない。日本人よりは劣ってますね。タイ人だから。で、タイ人のことばとかそういうのも自分は劣ってます。これは事実です。

このような100%へのこだわり、そして自分を中途半端と捉える自己認識は、実は複言語・複文化で育った子どもの特徴的なものである。「100%のタイ人」や「100%の日本人」など存在しないだろう。しかし、周囲の期待に応えるために言語と文化を意識的に身に付けようとした人ほど100%に拘ってしまう。


両方あっていいって言われるけど…
「両方わかっていい」って、みんなそうやってお世辞で言うかもしれないけど、自分にとってはどうだろう。それはいいかどうか。100%タイ人であった方がいいかもしれない、と思います。ハーフっていうとみんなディープにはわからないじゃないですか。周りの人も簡単に、あーいいね、両方しゃべれて、二つの習慣を経験できるって、良い方に見るじゃないですか。でも本当はそうじゃない。 選べるならどちらかにしたいです。

雅子さんはダブルであることを今はプラスだったと思っている。だが、その思いは長い複雑な経緯を経てやっと辿りついた結果なのである。それを知らずに気楽に「いいね」なんて言ってもらいたくない。そのぐらい、世間は、私たちは、ダブルの子どもたちがどのような思いで生きてきているか知らない。


 

 雅子さんの語りを見てきました。雅子さんの語りからはダブルの子どもの複雑な心境と経験を見ることができました。両方と言われても、どっちつかず、○○人としては中途半端。そんな思いが見えてきます。でも本当に中途半端なのでしょうか? トータルで見れば双方の懸け橋になれるほどの豊かな能力があります。でも、雅子さんはどうしてもトータルで自己評価できないのです。それは社会全体がトータルで評価する視点がなかったからです。○○人とか○○語というくくりを超えて評価するためには、「複言語・複文化」の視点が重要です。ダブル以上の複数の言語と文化で育つ子どもはこれからもっと増えていくでしょう。「複言語・複文化」は、一人の人間の中に複数のことばと文化が存在する状態を指し、複数性の多様さによって生まれる個人の多様性を大きな資源とする捉え方です。  雅子さんのようなダブルの子の複雑な思い、そして自分の能力を評価しきれない現状は複言語・複文化という捉え方によって初めて変えていくことができるのではないでしょうか。



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