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複言語・複文化を生きる子どもの語り(2)「両親は日本人ではないけれど、心は日本人の僕」「今の僕を作ったもの、『野球』と『言葉』と『親との関わり』」:言語マップ(201908WS06)

みつめよう子どもの姿、考えよう子どもの現実


親と子どもの話を聞こう

ー複言語・複文化を生きる7人の語りー


2019年8月25日(日)に終了したワークショップの3回目の報告です。今回は、第二部「体験者の話を聞く」セクションのAさんとCさんの語りの様子です。


それぞれのセッションでどのような語りが生まれ、気づきや学びが起きたのでしょうか。


 

「両親は日本人ではないけれど、心は日本人の僕」~Aさんの語り〜


<Aさんの背景:母中国 父タイ>



<Aさんの話のポイント>f:id:jmherat:20190825145248j:plain


・ずっと普通に日本にいると思っていた

・突然のタイへの移動

・泣きたくなったタイでの学校生活

・タイで生き抜くために考えたこと



<Aさんのストーリーと質疑応答など>


タイ生まれ。タイ人の父と中国人の母を持ち、4才で家族で日本に移住し、日本の幼稚園、公立小・中学校に通う。日本に永住するつもりだった両親の方針で、学校だけでなく家庭内でも全員日本語で生活するも、日本での永住権取得困難、東日本震災などにより両親の決断で、中2になってまもなく家族でタイに移動。タイではやっと見つかった中等学校でゼロからタイ語を学び、3年間ほぼ毎日、放課後にタイ語の個人授業を受け、大学入試を突破。現在、タイの国立大学政治学部3年生に在籍している。が、今も「考えるときは日本語」で、「母語が日本語」、「日本は『故郷』みたいな感じ」だと思っている。大学の授業で必要なことがタイ語で理解できないときには日本語で調べたり、理解したりしている。時事ニュースや小説も日本のものをよく読んでいる。 将来は、まだ具体的なプランはないが、生活のベースはタイがいいかなと思っている。



2回のグループセッションでは、さまざまな立場の保護者や、ダブル当事者の大学生、そして教師がAさんの話を聞きました。そして、日本からタイへの移動で起こったこと、両親の母語ではない日本語が母語になっていること、これからの「日本」との関わりについてなど、さまざまな質問が出ました。以下、質疑応答の一部を紹介します。


質問:中2で日本からタイに移動したとき、一番たいへんだったことは何ですか?その移動をご両親が決めたことに対してはどう思いましたか?


Aさん:日本では、家でも全部日本語だったので、タイ語はすっかり忘れてしまっていて、大変でした。それから、学校のことも。タイ語は、話すと今でも日本語なまりと言われます。一般のタイ人と比べるとタイ語の読み書きも遅いと思います。タイへの移動に関してはイヤだと思ったけれど、タイはそう遠くなくて、僕のルーツでもあるので、まあ、しょうがないというか。えーっと思ったんですけど、うすうす気が付いていたというか。



質問:タイに移動して、自分に自信がついて、タイ語でやっていけると思うようになったのはいつくらいですか?


Aさん:1年後くらいですね。環境が、もうやるしかないって感じだったんで。でも、最初の1年はすごく大変で、その頃、学校のテストの時とかは母が教室で隣に座ってわからないところを訳してもらいながら受けていました。でも、学校では、最初は留学生みたいな感じでしたが、実際は(僕は)タイ人なんで、すぐにタイ人扱いになりました



質問:タイトルに、「心は日本人」とありますが、どこがタイ人と違うんですか。


Aさん:日本で育ったので、考え方とか。日本語で物事を考えるとか、日本人的リアクションとか、母語が日本語だったり。今でも日本語でいろいろ調べたり…だと思うんですが。



質問:家庭内での言語は、今も日本語だけですか?


Aさん:親の母語は中国語ですが、日本の時は全部日本語でした。それは、僕が外国人だといじめられたりしないようにということでそうしたみたいです。今は、親とは日本語とタイ語が半分半分で、3才違いの弟とは日本語です。家族では、タイ語も日本語も混じっていて、「しっくり」くる方を使っているという感じです。



質問:中2のはじめで日本を離れてからもう何年も経っているのに、日本語はどうしているんですか。


Aさん:マンガとか、アニメとかで日本語を取り入れたり、JLPTとかを受けてキープしています。あと、小説を読んだり、ニュースも日本語でチェックしたり。でも、(家族以外で)唯一のアウトプットは、父の日本人の友人が時々タイに来た時です。



質問:大学に入って久しぶりに日本語を勉強しているということですが、それは簡単すぎるんじゃないですか。


Aさん:大学では副専攻で日本語を勉強していますが、普通の科目は確かに簡単です。でも、将来のためにビジネスというかそういう日本語を知りたいと思って。



質問:今、論文を書くとして、何語でもよかったら、何語で書きますか。


Aさん:日本語か、タイ語で迷うと思います。それでも、(タイ語は)日本語には劣ると思います。


(Aさんにとっては「日本語が母語」でタイ語よりも優勢であり、論文などの高度な文章表現をすることについても日本語の方が自分を表現できると語っていました。)



質問:日本に戻りたいと思ったことは? 将来、日本に戻りたいとか、住みたいと思いませんか。


Aさん:(タイに移動して)最初は戻りたいと思っていました。でも、だんだんと薄れたというか慣れて、だんだん居心地が良くなって。それでも、日本が故郷という感じは変わりません。将来、行ったりすることはあると思いますが、長期的に住むということは考えていません。親とも話したりしますが、タイがベースだと思っています。それで、日本語が生かせるのがいいなと思っています。





 事前のインタビューでAさんが語ってくれた移動に伴うさまざまなエピソードは、彼にとっては普通のことでも、ルーツも母語も日本単一であるわたしからすると驚きの連続でした。Aさんは、わたしにとってこれまでに出会ったことのない「日本語人」でした。両親が日本人ではなくても、4才から10年間住んだ日本のことばが母語になったこと、その日本を離れてから7年経っても「心は日本人」だと思っていること、そして、日本語は今もこれからも自分の一番自然なことばだと思っていることについて、わたしはこのような子どもがいることに驚き、何度もAさんの話を聞きました。


 Aさんは自分の経験が少しでも人の役に立つならと今回の語り手役を快く引き受けてくれました。これまで聞いた語りを通して、わたしはAさんにとっての「日本語」の意味をより深く知るとともに、Aさんのような言語背景の子がいるということを広く知ってもらいたいと思うようになり、今回のファシリテーターを引き受けました。


 今回のセッションでは、Aさんは聞き手から質問されたことで改めて考え直したことがいろいろあったようです。さらに、Aさんは今回、将来について「タイがベースで、それでも故郷は日本」ときっぱりと言っていました。過去のインタビューでは迷っていたので、この変化がとても印象に残りました。これからも彼に学ばせてもらいつつ、見守っていきたいと思いました。

(ファシリテーター:松井育美)



 

「今の僕を作ったもの、『野球』と『言葉』と『親との関わり』」~Cさんの語り〜


<Cさんの背景:母 タイ 父 日×タイ>



<Cさんの話のポイント>


・移動による喪失感 ―野球との決別


・言葉へのあくなき興味 ―3か国語が母語と言えるようになるまで


・親との関わり ―家出、放任、信頼を経て今思うこと



<Cさんのストーリーと質疑応答等など>


日本で生まれ幼稚園でタイ。小学校で再び日本に移動。小学1年で野球を始め、メンタルが強くなった。しかし、6年になる時にタイに移動し野球ができなくなった。その喪失感はあまりにも大きく、言葉や学校文化の変化はその打撃に比べれば大したことではなかった。タイではバイリンガル校に入学。英語は小2でハリーポッターを辞書片手に読んでいたほど好きで、3か月でタイ語にも慣れた。大学は国立大の政治学科に進学。授業料を稼ぐため大学2年で通訳・翻訳の仕事を始め今は本業。常に新しい課題はチャンスと捉え挑戦。今は日本語、タイ語、そして英語を使いこなす。語学は好きだったが塾に行ったわけではない。中学時代は親に反発。子どもは親の言う通りにはならない。しかし、根底には親が信頼して失敗しても受け入れてくれるという安心感があり、それが自分を作った。



Cさんのセッションは2回の予定が番外もあり、3回になってしまいました。セッションごとに参加者の関心のテーマが少しずつ変わるのが興味深かったです。質問をカテゴリー別に分けると、①親との関係、②言語について、③その他に分けられます。セッション1では主に①について、セッション2では②と③について、セッション3では主に②についての質問が多かったです。質疑応答の中でCさんから大人達へのメッセージ、また独自の言語システムが語られました。カテゴリー別に印象深い質問とそれに対するCさんの答えを紹介します。


<① 親との関係について>


質問:「タイでは子供のことは親が決めることが多いが、どうしてお母さんはそうじゃなかったのか」



Cさんは「強硬手段に出たから」と答え、それでも苦手な数学が「落第するぐらいの成績だったら親も放任しなかったかもしれないが、合格するギリギリの点は取っていたし、代替として何を頑張るか」親と交渉したと話しました。代替としては「文系科目はすべてA」という結果で親を納得させました。このことは「親子のコミュニケーション」だと意味づけていました。それまでケンカもし、家出もしたけど、話すときは徹底して話す。嫌いなものはただ嫌いというわがままで終わらせず、代替になるものを提示して、それに対しての努力は惜しまないというCさんの態度は、親の心を動かしました。それは、単にCさんが親に勝ったということではなく、「自分のことを信頼していろいろ任せてくれて、自分の人生を選ばせるっていうのは、自分は親に対していくら感謝しても足りないぐらいだと思う」という言葉に集約されるように、人生を賭けて親と対峙するぐらいの自分の真剣さを認めてくれた親への、心からの感謝の言葉をCさん自身に言わしめた、親の思いというものが感じとれました。また、ここまで徹底したコミュニケーションが取れる親子なんだと思いました。



質問:「自分がもし語学が苦手だったら、どうしたと思うか」



Cさんは自分がやると決めたことに対しては自分に厳しく向き合うが、苦手なことと格闘したりやりたいことが見つからない他者に対しては限りなくやさしいまなざしを持っています。この質問に対しては「英語はできないけれど代わりに○○で手を打とうとする」と言い、「苦手なところをわざわざ伸ばす必要が本当にあるのか。苦手なことは必要最低限でいいのでは」と答えていました。そして、今の職場でのことを例に挙げ、「タイ語全然ダメって言ってる上司でも、現場に行けばオペレーターとタイ語を話してるように必要が問われれば何とかなる。そこを緩いまま許してあげることはとても大事で、そこでタイ語全然だめじゃんって言ったら委縮してしまうだろうし、ある程度できたらそこを認めてあげるというのが大事」と答えたところは、3か国語を母語だと言えるまで極めたCさんにとっては、上司への敬意の表れであり、そこに他者の持つ能力をポジティブに見るCさんのまなざしを感じました。



<② 言語システムについて>


質問:「12歳でタイに来て、日本語を使う生活とは断ち切られたのになぜ日本語が母語と言えるのか」



Cさんは「学校や社会はタイ語だけで進んでいくが、僕の身のまわりの情報は日本語が多い。携帯やパソコンも日本語だし、日本の小説とか読んだり、日本語から切り離された生活をしている感じはなかった」と答えていました。本を読むことが好きで、家にある本はよく読んだけど、日本語の本は少なかったので、学校や市立図書館にこもっていた」そうです。ここで強調していたのは「勉強のためにではなく、単に読んだり書いたりが好きだったからで、漢字も本を読みながら覚えた」ということです。子供のころは好きなものに夢中になりますが、Cさんの場合は本であり、言葉であり、文字だったんですね。



質問:「どうしてそれほど語学に興味があるのか」



この質問に対するCさんの答えはとても素敵でした。「僕にとって語学を学ぶというのは自分の世界が広がる感覚」と答え、それに続けて「小さいのにどうしてそう思ったか」という質問に「小学校の時、ちょっと校区外に行ってみたいときがある。ちょっと西小学校まで行ってみようよみたいな。僕にとって本を読むことはそれと同じようなこと。」という答えが返ってきました。誰にでも思い当たるような小学校のときの感覚、ちょっと隣町に行くだけでも未知のものに出会える興奮があったことを思い出しました。語学を学ぶことが、自分を未知の世界に連れていってくれるアドベンチャーであり、こんな素敵な経験だったら、「いちばん深く考えごとができるのは何語か」という質問に対しても「全部」と迷わず答えるのもCさんを見て当然だと思えました。



<③ その他の質問>


質問:「小学校で日本に戻ってきて、友達関係はどうだったか」
 


親からすると、移動によって子供が体験する友達関係のことはとても関心が高いと思いますが、この質問に「人間関係が上手いほうじゃないので、基本的にまわりのことを気にしないで自分で環境を作っていた」、「自分が生きやすいように環境を作っていくというのが大事なんじゃないかな」と答えていました。小学校低学年ですでに生きていく術をある程度身に着けていたのかもしれません。それは移動による環境の変化から自分を守る術だったのでしょうか。このことは、自分の力ではどうしようもない大きな環境の変化に対して、自分で小さな環境を作ることで自分の身を守っていたということもできるのではないでしょうか。



質問:「10歳前後でどうしてそんなポジティブな考え方ができるのか」
 


「野球」で培われたそうです。自分の考え方ひとつで環境はプラスにもマイナスにもなるという彼の生きる哲学のようなものは野球で身をもって知らされたのだと思います。もう一つ印象的な質問に「やりたいことが見つからない人が多いが、どうしたら見つけられるか」というものがありました。Cさんは、「やりたいことが見つからないのは失敗を恐れるから。または、環境からは認められないような失敗になるんじゃないかという恐れがあるからやりたくなくなってしまうのではないか」と言い、やりたいことに出会うためには、「失敗を許してあげる環境や家族であること、安心して失敗できる環境を作ってあげること」だと答えました。本人がやりたいことができなくなっているのは本人だけのせいではない。環境にもその原因があるのではないかというCさんの指摘には、聞く者を深く納得させるものがありました。



 Cさんを2年前からインタビューしてきて、この人はなんて意志の強い人、さまざまな試練を乗り越えて生きてきた人なんだろうという印象が強かったのですが、今回のセッションでは参加者との語りを通して、Cさんは強さだけではなく他者の持つ部分的能力を認め、そこに温かいまなざしを持つ人だということに気づきました。同時に、今は放任だけれども、それは自分を心から信頼し見守ってくれているからであり、そこに至るまでのある時期、自分と徹底的に関わってくれた親に対する深い感謝の言葉を聞いて、子どもの意思を尊重することはその子の人格形成にまで影響することだということがわかりました。


 子どもの意思を尊重することは、はたからみれば「子どもに甘い親」という目で見られることもあるかもしれませんが、子どもはそれによって自分の生き方を探し出し、失敗を恐れずにやりたいことにチャレンジできるのだと思いました。親が作った環境、親が夢見る子どもの将来設計が子どもにはどれだけ苦痛で、実行こそ多くの子どもたちはできないにせよ、家出をするほどの抵抗感があることもわかりました。私自身が親として自分の子育てを振り返り、子どもの目線で聞いてあげられなかったことを思い出し、子どもは子どもなりに考えていたんだということを改めて噛みしめました。


 今回、Cさんのストーリーを聞かれた方も、ご自分の子どもとの間に起きるさまざまな場面を思い出されたのではないかと思います。親には親の、子には子の人格があり、考え方があり、それがそれぞれの人生を築く上での軸になると思うのですが、親はどうしても子の人生の軸を自分の軸に包括しようとします。本当は別々のものなのに。それを理解してもらうために親と真剣にぶつかってきたCさんが語った言葉は、多くの子どもの心の声のように思えました。その声は、「外からの声に振り回されず、目の前にいるあなたの子どもの声を聞いてほしい」と語っているように思いました。

(ファシリテーター 山本由美子)


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