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3.ことばは私の未来を切り開く(201307勉強会04)

複言語・複文化を生きる親と子の思い

−経験を語る、経験を聞く−


日本で育ち、タイで就職した

マリさんの思い(母タイ・父日本)


第3回報告

第2回報告では【自分が切り拓いた新しい世界】と題し、マリさんが辛い環境を自分の力で変えていった過程を報告しました。最終の第3回報告では、ことばに焦点をあて、マリさんがどのようにことばを学び、ことばと共に成長していったのかを報告します。

 
マリさんとことば−ことばは私の未来を切り開く

■マリさんと日本語
ことばも文字もわかるのに、意味がわからない:小学校入学
家では日本語でした。お父さんはタイ語がネイティブレベルらしいけどお母さんとは常に日本語で会話。ケンカの時だけお母さんが悪い日本語の語彙力がないのでタイ語。

マリさんのことばの記憶は日本語から始まっている。タイ人のお母さんは相当な努力をして日本語を使っていたと思われる。それでも、小学校入学の時期に鮮烈な思い出がある。


小学校に入った時、勉強が分からなかったです。それまで日本語で生きてきたんですけど。確か算数の問題で丸があって、丸の数が何個あるかを見て数字を書き込むという問題だったんですけど、書いてあることは分かるのですが、意味が分からない、それで皆に遅れを取っていたというのを覚えています。1年生の時、本当に分からなかったです。先生が今日は1時間目と2時間目に何をやるかというのを言って、言っている事が分からなくて、周りの生徒が廊下に物を取りに行くのを見て、それに倣って準備してました。1学期過ぎたあたりからだんだん分かるようになってきたのかな。それからは勉強に問題があるとは思わなくなりました。

日本語で生活できているのに、学習言語が分からない子どもの状況をマリさんの語りで知ることができる。「ことばは分かるのに、理解できない」のは、学習や学校で使われることばの約束事を知らないということで、認知力が低いわけではない。マリさんも1学期すぎたぐらいで日本語の問題は感じなくなったが、幼い1年生でも強い無能感を感じた記憶である。マリさんはこうやって、どんどん日本語を自分のことばにしていった。しかし、お母さんはそうではない。


伝えられない気持ち
お母さんの日本語の能力と、自分の能力とギャップが出てきて、話が出来ないと思ったことはないけど、お母さんは、この単語を使ったら分かんないだろうなっていうのはあって、話したいことは簡単な日本語で話すようになっていった。 お母さんの日本語はそんなに語彙もなくて、いじめられていた時、状況や自分の気持ちを言っても分からないだろうと思って言わなかったということもある。

成長すればするほど、自分のことば(日本語)が、お母さんには伝わらない、という気持ちを持たざるを得なかった。


立場を逆転させたお母さんとマリさんの日本語力
私が幼稚園のころはお母さんが日本語をすごく頑張ってた記憶があります。 でも(母が)幼稚園の集まりに行きたくないっていうことがあって、今考えてみるとことばが伝わらないとか自分のことばが変だとか自分で分かっているんで憂鬱になったんじゃないかって思います。それから私が中学になってからはっきり日本語で私に頼るようになりました。役所の手続きとか読めないから、私が読んで要約して説明してあげたり。私は頼りにされることが嬉しかったんで、しょうがないなーって代わりにやってあげました。今までお母さんが上の立場だったのに、自分が上になっちゃった感じはあったかな。

お母さんが日本語をがんばっていたことはマリさんの記憶にある。大変だったことも覚えている。そんなお母さんを知っているからだろう、お母さんに頼られることも負担感ではなく喜びで語られる。しかし、子どもとして決して楽な状況ではないだろう。



■マリさんとタイ語
タイ語とのつながりは弱かった:幼少期
幼稚園までお母さんはタイ語教えようとしていたらしいですけど、私は覚えていません。家にタイ語の本もないし。1年に1回、短期の旅行程度でタイには来ていた。親戚とは会っていたけど、ことばも通じなくて親しくはならなかった。ただ何となく、聞いたら分かることはある。例えば本を読み聞かせてもらうと、何となくこう言いたいのかなって分かる。でも話せるのは「サワッディカー」と「コップクンカー」とか「マイペンライカー」だけ。

マリさん自身は覚えていないが、小さい頃お母さんはタイ語でマリさんに話しかけていたと考えるほうが自然だろう。タイに来ることはあったし、親戚と会うこともあったが、タイ語はマリさんにとって「しゃべれないのでつまらない」もので、だからといって話せるようになりたいと思うほどのことばではなかった。家庭内言語は主に日本語で、両親は、特にバイリンガルに育てようとはしていなかったと言う。


お母さんが日本語で分かんないもしくは日本語を思い出せないことを、タイ語で言ってくることが多かったんです。私はタイ語で返せなかったんですけど、一応、何を言っているかはなんとなく分かったんで、私が日本語でこうだよっていうと、お母さんも「あ〜」ってなって、相互理解が高まることはあったんですよ。

そのような状況だったマリさんは、第2回報告で述べたように、就職活動をきっかけに、タイとの繋がりを強みとしてタイ語に興味をもち、学ぶことにした。タイで始めたタイ語学習はどのようなものだったのだろう。


記憶から蘇ることば
タイで始めた学習は初級からです。1,2か月目の内容でもう聞いても分からないことが増えてきましたが、でも、ほかの人よりもすごく上達スピードが速いというのは感じた。特に声調はぱっと聞いてそのまんま真似することができました。タイ語は忘れていたけど、勉強していると「おかあさんがよく言っていた」とか「ああ聞いたことある」って思い出したことが結構あった。自分からは思い出せなかったのに。そうすると、先生がちょっとタイ語で説明しただけで、「分かった、こういう意味でしょう」って。もう予想することができるんですよね。簡単に。(すっかり忘れていたんですよね。)そうです。自分からは思い出せないけど、聞いて思い出したって感じですね。

タイで始めた学習は初級からです。1,2か月目の内容でもう聞いても分からないことが増えてきましたが、でも、ほかの人よりもすごく上達スピードが速いというのは感じた。特に声調はぱっと聞いてそのまんま真似することができました。タイ語は忘れていたけど、勉強していると「おかあさんがよく言っていた」とか「ああ聞いたことある」って思い出したことが結構あった。自分からは思い出せなかったのに。そうすると、先生がちょっとタイ語で説明しただけで、「分かった、こういう意味でしょう」って。もう予想することができるんですよね。簡単に。(すっかり忘れていたんですよね。)そうです。自分からは思い出せないけど、聞いて思い出したって感じですね。


自分でも驚いたタイ語の上達、そして英語への興味
普通、他の人ってもっと倍の年数をかけてやるのが、「マリは本当に早いね。」って先生にも褒められて、そこで、ようやくハーフであることを良かったって思えるようになりましたし、自分に自信がもてました。

こうやってマリさんは「ハーフ」(ダブル)であることを良かったと思えるようになった。このころさらに英語にも興味を持ち、午前はタイ語、午後は英語を学ぶ、語学学習中心の生活を送ることになった。語学習得への強い関心と自信が感じられる。そして今、マリさんは語学力をもっと磨きたいと思っている。


ことばは私の未来を切り開く
(これから先の人生描くときに、なんかとても明るく描けてる感じ?) 描けてます。だからこっち来て良かったって思ってます。

マリさんが描く未来は明るい。今も、昔の辛かった子ども時代は今もその頃の知り合いとは会いたくないというほど心の傷になっている。それでも「からかいだったのかもしない」と言えるほどに乗り越えた。今、マリさんはタイで仕事に就き、お金をためたら英語圏に言って英語に磨きをつけるつもりだ。


 

マリさんは長い間、タイにつながりがあることをネガティブに捉えてきました。それは、日本の異質なものを嫌う傾向やタイに対する社会的な見方も影響していたでしょう。そんなマリさんが今、自分に自信をもてたと語れるのは、自分で高校を選択し、大学進学、就職と自分の力で世界を切り拓いてきたからでしょう。タイとのつながりを生かしタイ語学習で自信をつけたマリさんは、タイで仕事に就き、さらには英語圏で新たなチャレンジをしようとしています。辛い体験から復文化・複言語を武器として力強く生きるマリさんの姿は複言語・複文化を生きる子どもたちのこれからの可能性を私たちに見せてくれます。


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