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1.辛かった子ども時代(201307勉強会04)

複言語・複文化を生きる親と子の思い

−経験を語る、経験を聞く−


日本で育ち、タイで就職した

マリさんの思い(母タイ・父日本)


第1回報告

マリさんは現在28歳、お父さんが日本、お母さんがタイの方です。日本で生まれ、日本で育ちました。小中高と日本の公立校に通い、日本の大学を卒業して3年間働いた後、タイ語を学ぶために昨年来タイしました。現在はタイで日系企業に勤務し、とても充実しているそうです。マリさんとタイ人のお母さんとの日本での生活はどのようなものだったのでしょう。今日から3回に分け、マリさんの経験を報告します。

 
マリさんのストーリー:幼少期から中学校まで

マリさんは大変活発な印象の方で、こちらのインタビューにもはきはき答えてくださいました。楽しそうに将来を語るマリさんからは想像できないぐらい、実は子どものときは辛かったそうです。1回目は辛かった幼年期から中学校までのストーリーです。


■辛かった子ども時代

いじめの始まり
小学校に入る前に住んでいたのは田舎で、お母さんも近所の人たちと仲良く幼稚園は楽しかったです。小学校に入って授業参観があって、お母さんが外国人だと分かってから上級生からいじめが始まった。そのころから自分は周りとは違うのかと思うようになりました。小学校はお父さんの仕事の都合で2回転校。転校するたびに近所の子が「マリちゃんの母さん日本人じゃないんだよ」って言いだして、クラスの雰囲気が変わっちゃう。全然知らない上級生から「お前何語しゃべれるんだよ」とか、名前が変(苗字が漢字一文字、名前がカタカナ)とか言われた。帰り道で突然言われたりして、なんでそんなことを言われなきゃいけないのかと思った。

3回目の転校(4年の夏休みが終わって)
その頃は私は人を全く信用しないというか、お母さんがタイ人だということを言いたくないという風になった。2回同じ目に会ったので、またここで言ったら同じような目に会うかもって。・・・学校であまりお母さんの話とかしないようにしてました。 (学校楽しかった?)楽しくない。嫌いでした。 (家族に相談しなかったんですか)しませんでした。親には話しませんでした。先生にも話しませんでした。それを言ってお母さんがどう思うかと考えてしまって。お母さんのその時の日本語の語彙力もそこまでなかったので、自分の伝えたい事も全部伝わらないって分かっていたので、、、言ってお母さんがどう思うかってのも気にしちゃってた。

忙しい父には相談できず、相談するなら母親かなと思いながらことばの問題も考え躊躇した。でもマリさんが一番気にしたのはお母さんの気持ちだ。いじめの場合子どもは親を心配させることを恐れてなかなか話せない。中学校は小学校とほとんどメンバーは変わらず状況は変わらない。


いじめとしか思えなかった
中学に入っても「またお前来たの?」とか「お前、何部に入るんだよ」「お前なんかにできるわけないじゃんか」などと言われ、からかいだったのかもしれないけど、私はいじめられているとしか思えなかった。

外されてしまう私
ハーフだとかあんまり関係ないと思うんですけど。結構女の子の中ではあると思うんですよ。グループの中で誰かはぶいたりだとか。それで、私はそのターゲットになりやすかったです。・・・・(中学に入ってからも)なんかしら外されてました。授業でペア作るときも、必ずあまりになったりだとか。 (はぶかれるような理由が自分にあった?) いや、ないですね。

共有するものがない私
グループの中ではぶかれちゃう。何回もそういう経験をして、はぶかれる理由の中に、自分は片親が外国人だから、っていうのがあるのかなって考えてました。皆と共通の者じゃないというのがある部分が、自分の中でネックになっていたというか。ひっかかっていた部分として残っていたんで。それをマイナスに考えていたんですよね。皆と同じだったら、共通の話題もあるし、同じような環境ってことでなじみ易いと思ったんですけど、転校生っていうのもありましたし、片親が外国人っていうのもあって、皆と共有できるものが少ないんじゃないかなっていうか、共通点が少ないかなっていう。

共有できない、共通のものがない、それがマリさんの辛かった時代を語るキーワードだ。お母さんに同じ年齢の「ママ友」がいなかったことも原因だとマリさんは思う。


同級生のお母さんと情報を共有していない母
日本語がネックになって、あんまり私の同級生のママさん達とも絡めなかった時があったんですよ。よく、授業参観の時とかPTAの集会があった時なんかは、お母さんのグループが決まっているじゃないですか。終わった後で、「じゃあ、うちでお茶でも」ってなった時に、子どもも一緒についていくと思うんですよね。その時に私の仲の良いグループの子も行っちゃうんですよ。私のお母さんはそういうの行かないんで、私は家に帰るっていう感じで。ちょっとそこで、できていたグループに入りそこねたというか、取り残された感はありました。それは私の中で、片親が外国人ということがちょっと引っかかっている部分として残っている気がします。 (お母さんも友達はいたんでしょ?) いたんですけど、同じ学校の人とかじゃなくて、近所の人たちだったりするので、同じ年頃の子どもがいるってわけでもないんですよ。年齢が上の人が多いので、うちに遊びに行くと、麩菓子だとかおせんべいだとか出してくれるのを真似して、私の友達のときにもそうやって出したんだと思います。お母さんも与えられる情報が、同じ世代の人じゃなくて、ちょっと違う部分から来ていた。

お母さんが同級生の母親世代の情報網から外れていた。それはどういうことだったのだろう。


小学校に持っていく持ち物はお母さんが分からないからお父さんが作ってくれた。プールの着替え用のタオルに紐付けたやつ。お父さんだからどこかの工場でもらったようなタオルですごく恥ずかしかったのを覚えています。自分は持ち物が違う。雑巾とか袋とか柄とか。皆が持っているようにかわいくやって、って言っても、お母さんは分からない。実物を見たことないですし。「うちは他の子のうちとはやっぱり違うんだ」って思いました。それに、日本人のお母さんが普通にやることをタイ人のお母さんはやらないとか、日本人のお母さんがやらないことを私のお母さんはやるっていうことを、他の子にも目に見える形で分かってしまうことが、恥ずかしい部分があった。特にお弁当はすごい恥ずかしかった記憶があります。

持ち物が違う。お弁当が違う。その違いはいじめの原因にもなっただろうし、マリさんに周囲との違いを意識させ続けるものでもあったのだろう。マリさんはこのような違いを親が外国人だからと考えていた。それは外国人=文化の違いと考えていたということだろうが、今はお母さんが同じ世代の子どもをもつ親たちの情報網から外れていたからだと分析している。日本文化と言っても、実はそれぞれ属する社会独特の文化があり、その社会でのやり取りによる情報の共有でその文化は形成されている。 外国人である親がほかの親と文化背景が異なるのは当然だが、重要なのは、子どもに必要な情報網に親がいるかどうか、その情報網は「ママ友」との繋がりにあったのではないかと指摘しているのだ。


マリさんの小学校から始まった孤立した状況は中学校になっても続きました。今もその頃の友達とは会いたくないという心の深い傷になっていますが、マリさんはそんな状況から自分の力で脱出しようと考えました。次回第2回報告はマリさんがどうやって自分の状況を変えていったのか報告します。



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