JMHERAT 第20回セミナー
実践の往還を考える
ー複数の言語と文化を生きる子どもの成長を支えるためにー
今回の記事は、2024年3月31日(日)に行った第20回セミナーの最後の報告です。
前回までの記事
・終了報告はこちら
・報告①「「対話」による継承日本語教育の活動とは・継承タイ語教育を重ねる実践者の変容」はこちら
・報告②「ことばと自己認識・言語マップで「個」を見る・「家族」から「個」へ」はこちら
最終回となる今回は、第3部「「往還」をめぐって」についてご報告します。第3部のキーワードは、「実践の往還」「メタ的に見る」でした。当日は、これらの説明・議論が、コメンテーターの舘岡先生、池上先生、JMHERAT深澤代表により行われました。その特に重要な箇所についてご報告します。
「実践の往還」とは?
それぞれの実践は、実践者がそれぞれ別々に行っているイメージがあるかもしれません。でも、子どもにとってはどの実践も重なっているはずです。
支援する側の私たちはどの実践も重ねていく必要があるのではないかと考えました。それを「往還」というイメージで捉えています。
また、発表でもあった言語活動実践と複言語・複文化ワークショップ実践を繋げて考えられているのか。それぞれ個別の活動であったとしても、それらを重ねて考えていかなければいかないのではないか。この重ねる場が「セミナー」の場だと考えています。私たちはセミナーを、「実践をメタ的に捉え、実践の意味を振り返る場=メタ化する場」だと捉えていきたいと考えています。
もう一つの「往還」のイメージは、多層化するというイメージです。言語活動実践は、いろいろな場で行われていて、セミナーという場で様々な方と実践を共有しています。そうすることにより、自分の言語活動実践も変わっていくのではないでしょうか。その途中には、今回のように複言語複文化ワークショップ実践もまた入ってきて、いくつにも層が重なっていき、自分の言語活動実践が変化していく、これも一つの往還のイメージだと考えています。
実践を往還させるには「メタ的に捉える」ことが重要
「メタ化する」とは?
「メタ」=一つ上の
舘岡:心理学では、「メタ認知」という言葉があるように、「認知している自分を見ているもうひとりの、もう一つ上の自分からの認知」ということができます。抽象度を上げて、相対化するということです。
教師としては実践の場にいるときには、いろいろな事象が起きて、その対応に追われて、日々そのことで一生懸命になりますが、「私のこの実践は何だったんだろう」「どうしてこうなっちゃんたんだろう」「あの子はなぜこう言ったんだろう」などのように、実践そのものを少し天空から見るということをすることが「メタ化する」であり、そのような場を「メタ化する場」「メタ場」と呼びたいと思います。
だから、例えば言語マップを自分の受け持つ児童にしてもらった場合に、その言語マップを通して、「今までの歴史も含めて今のこの子があるのだ」ということがわかり、子どもが日々していることを抽象度を上げたレベルで見ることができるようになると思います。そういう意味で、複言語・複文化ワークショップというのは、マップを描く活動自体が「メタで見る場」になっているし、発表者がセミナーで発表するということも、自分の実践を聞き手にわかるように説明していくという「メタで見る活動」だと言えます。どうしても実践どっぷりの中にだけいると、私がよく言う「もぐらたたき」に終始してしまうので、「メタで見る場」は必要なのだと考えます。
「メタ化」は家庭内でも起きるのか
JMHERAT日本部会の発表では、妻が夫に何を言っても意に介さなかった夫が、他者からの言葉で捉えなおしをしたということが述べられました。これについて、以下のように舘岡先生が考えを話してくださいました。
舘岡:普段は家族というのはごちゃっとして一体化しているけれど、ワークショップのような外の場に出て、「あなたはどうですか」と言われて、「私はこうです」という場が与えられることによって、それぞれの個としての発言になり、今まであまり深く考えていなかったことを「あなたはどうなのか」と問われる場となっていたのだと思います。それはやはり「メタ化する場」になっていたのだと言えるのではないでしょうか。
深澤:「メタ化」したからこそ、「夫婦」ではなく、「個」になれたということなのだと思います。
なぜ「メタ化」が必要なのか
池上:「メタ化」をしないと、個々の実践を共有しても、重ねていくことができない。重ねていこうとするには、自分だけのものだった実践を、ほかの人にもわかってもらうために、一つ上から眺めて、俯瞰して、つまり「メタ化」をして説明をしていかなければなりません。これが「メタ化」する意味だと思います。自分の実践をそのまま話しても、なかなか他者には共感してもらえないという思いが、みなそれぞれあると思います。だから、ほかの人にもわかってもらえるように説明するには、自分の実践を「メタ化」して捉えなおし、話していく必要があるわけです。
発表の場は「メタ化」して話すことに意味がある
深澤:自分がした実践について「こんな実践をしました」だけを話すのではなくて、「これにはどんな意義があったのか」「これはどういう意味があったのか」というところまでもっていかないと、他人にとって意義あるものにはなってこないということでしょうか。そこに「メタ化」の必要性があると思いました。
舘岡:それに加えて、「他人にとって」だけじゃなくて、「自分にとっても」かもしれません。「メタ化」するときには、「私の実践はこれを目指している」や「子どもの教育はこうありたい」というような理念が実践から立ち上がるといいといつも思うんです。実践から、そのような理念を立ち上げるためにも「メタ化」をする。実践からそれが立ち上がったら、その立ち上がったものを持って、次の実践ができる。そうすることによって、次の実践の軸となり、それが行ったり来たりの軸になるのだと思います。
深澤:つまり、「メタ化」することによって自分自身も多層的になっていくということですよね。そこで重要なのが、自分への問い、実践に対する問いですよね。自分の実践が「こういうことをした」ではなくて、その問いの答えが「メタ化」してできてくるのだと思います。このような場のことを「メタ場」と呼んでもいいかもしれませんね。
舘岡:新用語ですね。そういったときに、「往還」の鍵となるのが「メタ化」だと考えられます。
「往還」/「応用」のちがいって?
舘岡:「往還」というのは、行ったり来たりすること、双方向ですよね。「応用」といったら、方向は一方向であって、例えば応用言語学というのは、言語学でわかった知見を現場に応用するということですよね。現場に一方向的に応用していくものです。だから、「往還」の行ったり来たりとは違いますよね。だから、今回の場合で言うと、言語教育の実践と、それを「メタで見る場」を行ったり来たりして、結局また現場にかえっていくんだと思うんです。現場から出てきたものを「メタで見て」、「自分はこれを目指しているんだ」というような大事なことが明らかになったら、それを現場に持って帰るという。
池上:その通りだと思います。「往還」というのは、もう一つ言えば、関わる者たち、両サイド、多層的だったら多層の者たち、それぞれに利益があるはずなんです。「応用」だと、それを応用した側の利益だけに注目していて。応用された側の利益も生ずると思うんですが、あんまりそこにインタラクションがないと思います。だけど、「往還」はそれぞれに何かが起きているからこそ「往還」するんだと思うんです。だから、例えば「メタ場」っていうのは、そういう場ができて、今日のセミナーがそうだとしたら、発表する人も発表することによって自分に何かいいことが戻ってくるし、聞いた側も次の自分の実践はどうしようと考えるっていういいことが起きてくるし。また、セミナーを運営した側も、「次はこんなふうに開催したい」というようなことが起きてくるわけじゃないですか。だから、これは「往還」であって、「応用」とは違う。
もう一つは、それが広がっていくということだと思うんです。自分の実践を「メタ化」して捉えて、実践を改善していくことによって、今度は教えている子どもたちに対しての考え方が変わってきて、子どもたちもそこでのパフォーマンスが変わっていく。これが螺旋状に上がっていく、そしてだんだん大きくなっていく、範囲が広がっていく感じ。だから、上がって、広がる、という方向性と、それぞれにとって「いいこと」が得られる、というようなイメージなのだと思います。
深澤:「往還」をしていけば、実践そのものが変わっていく気がします。同じ学習項目を扱っていたとしても、子供たちへの見方が変わったり、評価の観点も変わってくると思います。
舘岡:先ほどの日本部会の発表でも、ベンツさん(発表者の夫)の意識が変わったら、彼の活動も変わっていっていましたよね。だから、「往還」の中で「メタで見る」、その「メタ場」で自分の実践を振り返ることによって何か意識が変わるのだと思います。意識が変わると、いろんなことが全部変わっていきます。教室でも、活動のタイトルは変わっていないように見えても、意識が変わってるから中身が違ってくるんだと思う。だからこそ広がりがあって、意識が変われば、活動全体が変わるっていうことだと思います。
実践を振り返るときには、問いを立てて「メタ化」する
池上:言語活動の実践を複言語・複文化ワークショップの実践とつなげるということが、最初の問題提起としてあったと思います。これらはつなげなければいけないというか、つながっているものだと思うんです。それぞれの発表者の実践を聞いても、「往還」させていくことができます。自分の実践を振り返りながら、根元さんのフランスの実践やニラモンさんのタイ語の実践について、自分に引き付けた切り口を持って考えていくということが大事で。この2つの実践には、問いがあったじゃないですか。問いを立てるっていうことが非常に大事なことだと思います。自分の実践を振り返って重ねるときにも、ぜひ問いを立てながらやってほしいということが、私が伝えたかったことです。
問いを立てなければ、「メタ化」はできないということです。そして、自分の問いを立てることで、自分の実践を「メタ化」する抽象度をちょっと上げることができる。そうすると次の問い、深みのある問いが生まれていく。自分の実践を疑いながら、変容をさせ続けていく私になる。これが実践者としての教師の変容で、それを産むのは、他者との「往還」、そして、自分自身との「往還」なのだと思います。
今回の第20回セミナーは長丁場となりましたが、どの発表を聞いても、「メタ化」をして、自分の実践に引き付けて考えることができると、得るものがあります。「自分は実践者じゃないから」という人でも、人生における言語文化実践者だと言えます。発表を聞いて、自分の人生を「メタ化」し、自分の生活の上での「実践」と重ねて考えることはできるのではないでしょうか。
また、今回のセミナーでの研究会としてのもう一つの大きな気づきもあります。それは、「セミナーの開催」という活動実践は、発表者の実践を「メタ化」し、生活実践も含めた参加者の実践とつなげる、「メタ場」の構築実践なのだということです。漠然と思っていたことではありますが、セミナーの場所を「メタ場」と名付けたことでより明確になりました。
今後も研究会では、複言語・複文化ワークショップ、およびセミナーを引き続き開催していきますが、どの実践も「メタ化」して捉えて、自分の実践につなげて学びとっていくという姿勢を大切にしていきたいと思います。